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宮下啓さん(82)飯島町南仲町

県戦没者遺族大会で県知事表彰、遺族会相談員

宮下啓さん(82)飯島町南仲町

 飯島町の遺族会長や上伊那遺族会副会長を歴任するなど、多年にわたり、戦没者遺族の援護のために尽力し、県戦没者遺族大会(10月25日、須坂市開催)で、県知事表彰を受賞した。
 「兄をニューギニアで、サイパン島やパガン島で多くの戦友を亡くした。命ある限り、慰霊を続け、遺族の相談に乗っていきたい」。
 1924年飯島町生まれ。41年、19歳で海軍に志願、鈴鹿航空隊に入隊。海軍通信学校で通信、暗号の訓練を受け、大湊航空隊の配属となった。44年2月サイパン島に渡り、周辺諸島を偵察中に、サイパン島は米軍の攻撃を受け、帰着できず、近くのパガン島に不時着。不時着したとたん、米軍機30機の猛攻を受けた。「足と手に爆弾を受け、命からがら、飛行場をはいずって逃げた」。以後終戦の45年8月まで1年4カ月、米軍の攻撃にさらされながら、ネズミやトカゲ、カタツムリ、ブタイモを食べて命をつないだ「戦死と戦病死、栄養失調で400人が200人になった」。終戦と同時に武装解除させられ、米軍から戦利品の米が渡された「1年5カ月ぶりの米の飯で全員が下痢をした。腹の中はすっかり野生化してしまっていた。かゆから慣らした」。46年10月初旬、戦友の遺骨を抱いて復員船で内地に戻った。しばらくは結核と栄養失調のため家で療養した。その間2回手術と受け、腕や足に受けた破片を取り出した。
 48年、兄(克己さん)の戦死公報が届いた。東部ニューギニアで44年9月3日に亡くなっていた。「兄は戦闘機乗りだったので、覚悟はしていたものの、どこかでという思いは捨てきれかった:」
 上伊那遺族会長まで務めた父(良蔵さん)が77年に亡くなり、遺族会の仕事を引継いだ。遺族会副会長、会長、上伊那副会長と遺族会に30年間かかわった。相談員も12年間務め、遺族のさまざまな相談に乗ってきた「遺族が和やかに暮らすことが英霊に対する1番の慰めになる」という。
 1昨年夏、ニューギニアに慰霊巡拝の旅に出掛けた。「現地人の案内で密林に入り、1メートルも掘ると、草の根、木の根にからませながら、日本軍の兵士が小銃を肩に立てかけた、そのままの姿で横たわっていた。水辺では水を求めて、もう一歩のところで息絶えた英霊もいた。そういう悲惨な状態を目にしても、どうしてやることもできない。ただ慰霊を続けるだけ」と話す。
 妻と2人ぐらし(大口国江)

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