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2511/(月)

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細田伊佐夫さん(73)染織家、宮田村河原町

阪本天山と武田耕雲斎の漢詩を原寸大に染める

細田伊佐夫さん(73)染織家、宮田村河原町

 「一心不乱に染め上げ、改めて、先哲の言葉と生命の水がめの神聖さ、故郷の山の尊さを思い知らされた」-。中央アルプス駒ケ岳にある阪本天山の四言四句古体詩碑と、村内の山浦正弘さん宅に残る幕末の水戸浪士(天狗党党首)武田耕雲斎の七言律詩の掛軸の2大漢詩を原寸大に柿渋で染め上げた。作品は3月から村内のアルプス中央信用金庫宮田支店ロビーに展示する。
 細田染織染色工房香藍窟を主宰し、さまざまな模様を染める傍ら、神社の幟旗(のぼりばた)染の詩句に引かれ、以来「言葉染」をライフワークにしている。
 村出身の哲学者、唐木順三さんの詩碑、民俗学者で歌人の向山雅重さんの歌、宮沢賢治の真筆「雨ニモマケズ:」。芥川龍之介の「かっぱの図」などのほか、恩師や親交のあった著名な書家の作品などを多数手掛けた。
 阪本天山は江戸中期高遠藩郡代の砲術家、勒銘石と呼ばれる詩碑は縦1・5メートル、横2メートル。1784年、天山らは中御所から前岳を踏破し、尾根で堅ろうな石を見つけて、天山が「霊育神駿 高逼天門 長鎮封域 維嶽己尊(聖なる西駒は、神の乗る馬を育て、その頂は高く天門にまで迫る:」と駒峰を称えた詩を読み、同行した石工に刻ませたという。
 一方、幕末の水戸浪士(天狗党党首)武田耕雲斎の七言律詩の掛軸は縦2メートル、横1メートル。「一朝憤奮義忠情」から始まる詩は、今福清二さん(駒ケ根市)の読みでは「ひと度ふるい立たせる正義の心、骨を砕き身を裂かんとす、天子の兵 孫子の謀を持ち、呉子の智を備え、張飛の勇烈を持ち、岳飛の正義を守る心を持つ、駒の峯に伝う道は雪にさえぎられて行き難し:」と続く。国を憂い、尊王攘夷の志に殉じた耕雲斎の気魂が伝わってくるという。
 「染め作品は、日常目に触れることの少ない言葉を手軽に目につくところに飾る利点がある。先哲の顕彰と伝承につながり、村起しの一端になれば」と話した。
◆水戸浪士の通行
 幕末の64年、水戸藩は尊王攘夷派と佐幕派に2分され、勤皇派は天狗党を旗揚げしたが幕府の弾圧にあい、攘夷の企ては失敗。武田耕雲斎を首領とする天狗党は、挙兵の志を朝廷に伝えるために、上洛を企てた。一行約千人は11月1日、常陸国太子を出発、幕命を受けた諸藩兵と戦いながら、信濃路、中仙道、美濃路を西上するが、12月11日、敦賀郡新保で、10数藩の兵に阻まれ、17日加賀藩に降伏。敦賀に護送され、2月耕雲斎ら主謀350人は斬罪、他は追放、流罪に処せられた。維新後、耕雲斎らの霊は松原神社の神号を下賜され、靖国神社に合祀された。
 伊那街道の通行は11月22日、伊那部(伊那市)で昼食、宮田は午後通過し、上穂、赤須宿(駒ケ根市)に分宿。山浦家に残る耕雲斎の遺墨は、当主、山浦藤左衛門が浪士らに捕らわれた高遠藩士の助命のため、赤穂の本陣に出掛け、耕雲斎に会い、一書を請い受けたものと言われている。

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