中川村教育長、松村正明さん(62)
中川村片桐田島
「教育長の仕事は公民館や文化財、学校教育と多岐に渡っている。頭の中に常に入れておく内容、目を届かせる範囲が各段に広い」と就任1カ月の感想を。
1944年中川村片桐田島に生まれ。「子どもが好きで、創造し作り出すことに関心があり、教員になろう」と、信州大学教育学部に進み、卒業後は上田二中学校に社会科教諭として赴任「学級経営の難しさを痛感し、先輩教諭から社会科指導のあり方を徹底的にたたきこまれ、鍛えられた」。
隣村の大鹿村大河原中学校では小規模校のため、社会科、国語、英語、体育、美術と、色々の教科を教えることでき、楽しかったとか。
伊那中学校を経て、松本市の信大附属中学校へ「全県から意欲ある人々が集まり、人との巡り会い、関わりの中で刺激を受け、人的財産を蓄積できた」。
その後、長谷小学校へ、初めての小学校で5年生を受け持った。「初めは中学校のくせが抜けず、言葉遣いに気を使ったが、慣れるに従い、思いきり自由にやらせてもらった。炭焼きに挑戦したが失敗、いろいろな人に助けられ、経験者に教わりながら、焼けるようになった。5年間もいたので、児童ばかりでなく、家族もわかるようになった」とか。
87年、赤穂小学校に転任し、初めて1年生を受け持ったり、教務主任として、赤穂南小学校への分離も経験した。
94年、赤穂南小学校の開校に合わせ、教頭として多くの同僚と一緒に南小に移った。「開校準備は時間との競争で大変だった。寝る間も惜しんで、動きまわった。開校に出くわすなんて、一生に1度あるかどうかの巡り合わせ、貴重な体験をした。開校し、子どもたちが登校してきて、初めて、学校に魂が入ったと感じた」とか。
研究校と言われる長野市三輪小学校に校長として赴任「どのように足が地についた研究をするか考え、公開研究会を行なわず、地道な発表会にした」。 続いて、伊那市東春近小学校長に「地区協の力が大きく、学校からの要望はものの見事に実現した。地域が学校を大切に思い、支えてくれていることを痛感した3年間だった」。
隣町の飯島中学校では再び、中学校に戻り「数学をさんすうと言ったり、優しく、丁寧に話したりと、中学の感覚に戻るのに、少し時間が掛かった。あいさつ、清掃、歌声、読書を根づかせることに心を砕いた」
退職後、05年10月から、村公民館長を務め、07年4月教育長に就任した。
「『人は人によって人となる』に言い尽くされるが、教育のいきつくところは『人』。教える側も、教わる側も一方通行でなく、信頼関係を築き、相互に高まる関係であってほしい」と希望する。母と妻の3人暮らし