飛び立てなかった海軍二等飛行兵曹
伊那市長谷中尾
大出達雄さん(80)
“浜までは 海女も蓑(みの)着る 時雨時”
「海に潜る海女であっても、陸にいるときに雨が降れば自分の体を気遣って蓑を着る。だから、命は絶対粗末にしてはいけない。大切にしろ」
大井海軍航空隊にいたある司令官は、自作の詩とともにそう語った。その言葉は印象的だった。62年経った今でも鮮明に覚えている竏秩B
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栃木県出身。航空戦力の立て直しを目的として国が海軍航空隊の増員を進める中、甲種飛行予科練習生に自ら志願したのは中学3年生の時だった。1943年、入隊試験に合格。茨城県の土浦海軍航空隊甲種13期に配属となり、基礎となる体力づくりのほか、精神教育、陸戦、軍制などといった知識を徹底的に叩き込まれた。
翌年ほどなくして予科を修了し、偵察員を養成するために開設された静岡県の大井海軍航空隊第39期に配属となる。
大井に移ってからは、爆撃、射撃、航法など、実際に知っていなければ自分の死に直結する実践的な訓練が中心となった。厳しい訓練を必死でこなす一方、周囲の状況から、日々悪化していく戦況を感じずにはいられなかった。
敵の艦載機が航空隊の上空を頻繁に飛び、その爆撃で命を落とす友人を目の当たりにする。そんな日常が続き、自分も生きて帰れないことを覚悟した。
「土浦にいた時は『戦局は極めて悪化の一途をたどっている。人間魚雷として志願してくれ』という訓示があった。この訓示により、自分たちより2カ月遅く入った同期の仲間が随分と持っていかれた。土浦を出てからも、関西や鹿児島の方に行った同期の仲間は特攻機に乗って亡くなっている」
敗戦色が濃くなってきた1945年3月、突如として偵察術の訓練が中止となり、自分たちが使っていた訓練用の航空機を使い、特攻隊として編成された八洲隊の訓練が始まった。
いよいよ自分も危ない竏秩Bそう感じ、兵士らの繕い物をするため兵舎に出入りしていた女性に手紙を託し、航空隊の外にある班長の下宿に父と弟を呼び出し、面会を果たした。
しかし、最終的には航空機の数が足りず、順番待ちをしたまま飛び立つことなく終戦を迎えた。
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終戦後、社会的にも、精神的にも立ち直るには時間がかかった。社会的な復帰を果たした後も、思い出したくない記憶は封印し、極力表に出さないことを心がけた。
しかし10年ほど前からは、大井海軍航空隊のOB会に参加したり自分の戦争体験を語るなど、過去の記憶をたどるとともに自分の経験を伝える活動に取り組み始めた。
「それまではあまり思い出したくもないので、OB会にも参加していなかったし、戦争のことを語ることもなかった。しかし、平和を守るためには戦争をしないという合意づくりが大切だと気付いた。だからこそ、自分の経験を伝えていこうと思う。若い世代には、平和を守ることがいかに大切かを伝えていきたい」