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直江津港遭難から65年

直江津港遭難から65年

 竏虫桙燻・1日に降った雨で荒川・保倉川も増水し至極悪条件であり、水中の生徒は一心に泳いだが突堤に近づくと二度目の波で流されたが生徒は一生懸命で泳ぐ、村上教員の叫びも一心である「皆な泳げよ!…」悲痛の声…(搏美六人力会発刊、「直江津遭難の記より」)。
 1942年9月13日、箕輪中部小学校の6年生26人が新潟県直江津海岸で波にさらわれ、うち5人が帰らぬ人となった。修学旅行中のことだった。
 旅館についた154人の児童(修学旅行は2つの班に分かれ、12日に1班が、13日に2班が行った)。海へは出ない方が良いという旅館主の注意があったが、山国に育ち海を見たことがなかった子供たちは、他校の児童たちが遊ぶ姿を見て、海岸へ向かった。教師たちもやむなく同行。波と遊ぶうちに突堤の方へ。漁師の注意を受け、教師が児童をともない引き返そうとした時に、突然、大人の背丈ほどもある大波が襲った。26人が海中へとさらわれた。落ちた子供の話によると、コンクリートの上をずるずると滑ったという。大人たちの救助により、21人が引き上げられたが、5人は命を失った。
 その日から65年が経つ。257人の同級生は一人一人が遭難事故のことを忘れずに「搏美六人力会」をつくって活動を続ける。
 会の名は、当時校長で遭難の責任をとって辞任した牛沢搏美さんの「5人の友の分と自分を合わせて6人分がんばれ」という言葉からつけられた。
 箕輪中部小の校庭に立つ2つの石碑。遭難で亡くなった5人の十三回忌のおりに建立された「直江津遭難慰霊碑」、その横に「牛沢搏美先生公徳碑」が並ぶ。
 「和服姿で、毅然としていて、侍みたいな先生だった」と搏美六人力会会長の今井友利さんは懐かしそうに語る。
 校長辞任後、牛沢さんは信濃教育会専任幹事に就任。1945年、東京に出張中、空襲にあい亡くなった。頌徳碑は1987年に、牛沢さんに対する敬慕の念から建てられた。
 毎年の参拝・同級会、回忌ごとの法事、石碑の建立の他にも搏美六人力会は、直江津港遭難について記したものや会の記念誌、牛沢搏美遺稿集の発行、小学校に対する寄付などの活動をしてきた。「役員が何かしようと提案すると、皆がうなずいてくれる。すばらしい仲間に恵まれた」と今井さん。
 65年の間、毎年、欠かさずにしてきた石碑の参拝や同級会だが、今年で同級生は喜寿を迎えることを機会に、今井さんら役員は高齢の会員のことを考え、今までのように全会員に声をかけて集めることはやめようと決めた。今後はそれぞれが自主的に9月13日になったら石碑に参拝することになる。
 13日には、現在の箕輪中部小学校の6年生120人が搏美六人力会の石碑参拝に参列する。遭難の悲劇の教訓を、そして何よりも65年の歳月を経てもつながり続けた同級生のきずなを、子供たちが学べる機会となりそうだ。

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