油絵を描く
箕輪町下古田
朝倉将至さん
「生きた絵を求めて」をテーマに、自己流で油絵を描き続け37年になる。「音楽は寂しい音や楽しい音が聞こえる。季節も聞こえる。それを絵でどう表現するか。うれしい、楽しい、悲しいなど内面的なものを相手に伝える、何かを訴える。仲間には、そんなの描けないよと笑われてるけど」。難しいテーマにあえて挑戦している。
主に風景画で、スケッチをしたり、記憶をたどって描いたり。
「1枚だけ描くと壁にぶつかるから」と、何枚ものキャンバスを置いて制作に取り組む。1枚目で筆が止まったら2枚目を描く。描けると思うと1枚目に戻る。「だから、壁にぶち当たったことがない。逃げ方が上手いんだな」と笑う。
今は抽象画も描く。筆だけでなくカッターナイフ、くしなども絵を描く道具として試した。最近は筆で塗った後にゴムで掘り起こす方法で、「何ができるか分からない偶然性」を楽しんでいる。
「抽象画はでたらめ描いてあるからいいのかな」と冗談めいて笑うが、「訴えるものを取り込めるのが魅力。内面を込めて描くので、一人でもいいという人がいればそれで成功だと思う。人は皆別だからね」。これまでに、作品を見て涙を流してくれた人もいたという。
絵を始めたのは就職してからだった。小学生のころは絵が展覧会に出てほめられ、中学の校内写生会は3年間、最優秀賞や優秀賞を受賞。絵描きを志したが親の反対で、高校時代は絵とは無縁の生活を送った。卒業後、東京で就職。人間関係などからノイローゼになり朝まで眠れない日々を過ごした。「このままでは病院行きになってしまう。どうせ眠れないなら絵を描こう」と絵筆を握った。
運送業から料理の世界に入り、板橋の中国料理の店「一品香」で4年間修行。のれんわけしてもらい74年、出身地の松本市に戻って「中国料理 一品香」をオープンした。89年に養子で朝倉姓から小平姓になり、16年間腕をふるった店を閉じて箕輪町に移った後は、定年を迎えるまで会社勤めをした。
仕事も住む場所も変わったが、ずっと続けてきたのが油絵だった。店をやっていたころは、自分の絵を店に飾った。上高地の帝国ホテルを描いた絵を売ってほしいと、3カ月間毎日通ってきた客に根負けして、「やるから持っていってくれ」とあげたこともある。中央展に出品し、個展も3回開いた。年鑑に名前も載っており、各地に絵の仲間がいる。周囲に知られているため、絵を描くときは朝倉姓を名乗り続けている。
「絵描きに転向も考えたけど、踏み切れないでいる。ずっとやってるのは好きなだけだね」
箕輪町長田の日帰り温泉施設ながたの湯ロビーで作品展示する「MAながた会」を01年に立ち上げ、毎年新作を発表している。(村上裕子)