上伊那和裁連盟会長
伊那市荒井区室町
竹入良子さん(71)
和裁をしている母の姿を覚えている。
「あ、今は首の部分を縫っている」
幼な心にそう思いながら、母の針仕事を見ていた。それはすべて、満蒙開拓団として渡ったハルピンでの記憶だ。終戦を迎え、満州移民団のほとんどが国境地帯に取り残される中、命からがら両親とともに引き揚げてきたのは1946年、小学3年生の時だった。
帰国してからの生活も厳しかった。母も働きに出るようになり、和裁をする姿はあまり見なくなった。高校に進学することはできたが、家計に余裕はなく、家庭科の授業は受けられないまま、卒業を迎えた。
「だから和裁は一番苦手にしていたことだったんです」と語る。
◇ ◇
和裁を始めたのは40歳を過ぎてからだった。すでに終戦から30年がたち、生活は豊かになっていた。結婚して2人の娘にも恵まれ、母とも同居。日常生活は幸せだった。その一方で抱いた一つの思い。
自分の中に何か技術を残したい竏秩B
「昔に比べ、お金に困る生活はなくなったし、生活も幸せだった。でも、自分の中には確固としたものがない気がした。娘2人の嫁入り道具をそろえたいという気持ちもあったし、40歳を過ぎて、苦手に挑戦するのも良いかなって」と笑顔を見せる。
その後、教室に通って和裁を習得。和裁士となってからは日に数本の帯を仕立てることもあった。一つひとつの方法が厳格に決まった和裁の中でも、美しい直線を縫うことは特に難しかった。しかし、徐々に形を現す着物や帯を見ながら、針を進めるのは楽しく、とりわけ誰かのためにする仕事は喜びが大きかった。
◇ ◇
4年前、母のための絡子(らくす)を縫った。普段、和裁をやっていても絡子を縫うことはない。しかし、ある寺の住職に「自分があの世に旅立つ時のための絡子を作ってみてはどうでしょう」と勧められた。その時は「自分のための」と言われたが、自分にはこれまで育ててくれた母がいる。まずは母のための絡子を縫おうと決め、住職の指導を受けながら絡子を縫い始めた。その時すでに、母は90歳を過ぎていた。
絡子を縫い始めると、これまでに感じたことのない不思議な感情がこみ上げてきた。
絡子を縫えることへの感謝の気持ち、また、一針ごとに母との思い出が去来し「この世に送り出してくれてありがとう」「長生きしてくれてありがとう」という思いでいっぱいになった。
「本当に不思議です。絡子を縫う時は一つひとつのことに対し、感謝の気持ちでいっぱいになるんです」。
その母は昨年他界した。出棺の時、母のために作った絡子も棺おけに入れた。「ありがとう」。こみ上げるいろんな感情をその一言に込め、母を送った。
今年の針供養では、母の針も供養してもらおうと、母の使っていた針箱を整理した。箱を開くと、糸が通ったままの針が残っていた。
ばあちゃんが通した針だ竏秩B
懐かしさが込み上げるとともに、「和裁をやっていて良かった」と、実感した。
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世間では今、和裁士は高齢化し、継承者も少なくなっている。一方で海外縫製は増加。日本の古き良き伝統文化がそんな風に変遷していくのは切ないが、自分の技術を磨き、文化を継承していきたいと考えている。
「今、和裁士としてともに活動している仲間はみな、心を込めて和裁に取り組んでいる。その人たちと和裁を続け、美しい日本の和服を残していきたい」