【日本美術家連盟会員 洋画家 須澤重雄さん】
伊那市中央区
画壇に確固たる地位を占めて半世紀。内外の美術展で数々の賞を受賞する一方、美術界の発展と後進の指導にも力を尽くしてきた。古希を過ぎても創作意欲はいまだ衰えを見せず、重鎮としての圧倒的な存在感は健在だ。
◇ ◇
自然豊かな豊科町(現安曇野市)に生まれ育った。水墨画、南画、彫刻などの美術家を多く輩出した家系だったことから、幼少時から芸術に親しんだ。画家を志して武蔵野美術大に進学し、3年の時には早くも第31回国展に初入選を果たす。翌年には読売アンデパンダン展に参加。卒業後も造形賞展コンクールに入選するなど、若くして才能を開花させ、第一線の抽象画家として活躍した。
転機が訪れたのは30歳の時。日仏現代美術展に入選したことで欧州に渡る機会を得た。フランス、ポルトガル、イタリア、オランダなどを歴訪したが、中でもスペインのプラド美術館収蔵の古典作品には、それまで経験したことのない強い衝撃を受けた。
「油絵の本質を見た思いがした。数百年前の作品なのに、あたかもつい昨日描いたように絵の具が光り輝いていてね。絵というものはこういうふうに描かなければならないのだと思い知らされた」
帰国後は抽象画にこだわることなく、詩情豊かなロマンを表現しようと具象絵画の追求に心血を注いだ。
40歳ごろから馬をモチーフとした作品にも取り組み始めた。
「馬を描こうと思ったのはね…。特に意識はしなかったが、少年期を過ごした安曇野の心象風景が潜在意識にあったせいかもしれない。当時の農村ののどかな風景や温かい日常生活が心の内から自然にわいてくるんだ。そういうものを自分でも知らず知らずに表現したかったのかな」
絵画の基本はデッサン竏窒ニ言い切る。デッサンを追求し、結果として抽象、具象と表現が違っても、根本的には心象を通して造形の本質を追求することに変わりはないのだと。
「絵は人生の証し。若い時は形ばかり追っていたような気もするが、一つの生き方として今日までずっと描き続けてきた。なぜ描くのか竏秩Bそれは分からないが、絵を見てくれる人がたとえ1人でもいるのなら描き続けたい。心は今も画学生のままだよ」
(白鳥文男)