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第4回
伊那谷発-個性ある食文化を全国へ【上】

【出席者】
●登喜和冷凍食品株式会社
社長 登内英雄さん(53)
●合資会社宮島酒店
企画部長・社長代行 宮島敏さん(43)
■司会 伊那毎日新聞社企画部 毛賀沢明宏

第4回<br>伊那谷発-個性ある食文化を全国へ【上】

 狂牛病や鳥インフルエンザを1つの契機にして、近年、食についての消費者の意識が変化している。安全・安心・健康を求めて、伝統食への関心が高まり、その地で採れたものをその地で食す「地産地消」の考え方も急速に普及してきた。そうした中で、上伊那の食品製造業社は何を考え、模索しているか?
 伝統食こうや豆腐の新たな展開を目指して研究を重ねる登喜和冷凍食品の登内英雄社長と、地元産の酒米「美山錦」を使った個性ある日本酒の製造と販売に精力を傾ける宮島酒店の宮島敏企画部長に、直面する課題と食品製造業の今後にかける夢を語り合ってもらった。
【司会・毛賀沢明宏】

創業以来の歴史を継承して

第4回<br>伊那谷発-個性ある食文化を全国へ【上】

司会 まず、自己紹介をかねて、会社の概要と、現在、力を入れていることを教えていただけますか?
宮島 「信濃錦」宮島酒店の宮島敏です。当蔵は明治の終わり頃に創業していますが、もともとは米屋だったこともあり、米にこだわった酒造りを進めてきました。また、1967年(昭和42年)に、防腐剤を使用しない酒造りの方法を父(宏一郎氏)が開発し、特許をとりましたが、全国の酒づくりに貢献できるのならとすぐに特許を公開するなど、安全についても強いこだわりを持ってきました。現在は、そうした流れを汲んで、地元の酒造好適米(酒造りに向いた米)「美山錦」を、契約農家の方に、無農薬もしくはできる限り農薬使用を抑えた方法で栽培していただき、その良さを生かした酒造りを進めています。
登内 登喜和冷凍食品は1951年(昭和26年)創業ですが、もともとは私の祖父が昭和2年に富県の北福地から出てきて現在の地で始めた生豆腐屋だったんです。かなり手広く商売をしたようですが、終戦後生豆腐だけでは面白くないということになりまして、いきなり中古の冷凍機を買い込んできた。「登喜和冷凍食品」という社名に示されるように、まず冷凍食品を出そうと考えたようですね。自分のところにあったのは豆腐だから、それを使って凍み豆腐を造ったわけです。
宮島 はじめから販路は県外を見込んでいたのですか?
登内 そう、全国に出せるものをつくろうという発想だったんでしょうね。昭和30年頃には、販売を受け持つ問屋と組んで「鶴羽二重」というブランド名で大阪に進出しました。
 信州のこうや豆腐は面白い歴史を持っていて、昭和30縲・0年代の前半にかけて、県の応援で生産組合が指導して、各業者がノウハウをオープンしたことがるんです。切磋琢磨し、こうや豆腐生産の技術アップを図ったんですね。販売も各県ごとに業者が住み分けて共存が可能でした。「高野豆腐の歴史」とか「高野豆腐の科学」とかという立派な研究書も出されブランドイメージ作りまで行なわれたんですよ。
宮島 へぇ、県を挙げて特産品づくりを行なったということなんですね。

加工度を高める試みの果てに

第4回<br>伊那谷発-個性ある食文化を全国へ【上】

司会 まず、自己紹介をかねて、会社の概要と、現在、力を入れていることを教えていただけますか?
宮島 「信濃錦」宮島酒店の宮島敏です。当蔵は明治の終わり頃に創業していますが、もともとは米屋だったこともあり、米にこだわった酒造りを進めてきました。また、1967年(昭和42年)に、防腐剤を使用しない酒造りの方法を父(宏一郎氏)が開発し、特許をとりましたが、全国の酒づくりに貢献できるのならとすぐに特許を公開するなど、安全についても強いこだわりを持ってきました。現在は、そうした流れを汲んで、地元の酒造好適米(酒造りに向いた米)「美山錦」を、契約農家の方に、無農薬もしくはできる限り農薬使用を抑えた方法で栽培していただき、その良さを生かした酒造りを進めています。
登内 登喜和冷凍食品は1951年(昭和26年)創業ですが、もともとは私の祖父が昭和2年に富県の北福地から出てきて現在の地で始めた生豆腐屋だったんです。かなり手広く商売をしたようですが、終戦後生豆腐だけでは面白くないということになりまして、いきなり中古の冷凍機を買い込んできた。「登喜和冷凍食品」という社名に示されるように、まず冷凍食品を出そうと考えたようですね。自分のところにあったのは豆腐だから、それを使って凍み豆腐を造ったわけです。
宮島 はじめから販路は県外を見込んでいたのですか?
登内 そう、全国に出せるものをつくろうという発想だったんでしょうね。昭和30年頃には、販売を受け持つ問屋と組んで「鶴羽二重」というブランド名で大阪に進出しました。
 信州のこうや豆腐は面白い歴史を持っていて、昭和30~40年代の前半にかけて、県の応援で生産組合が指導して、各業者がノウハウをオープンしたことがるんです。切磋琢磨し、こうや豆腐生産の技術アップを図ったんですね。販売も各県ごとに業者が住み分けて共存が可能でした。「高野豆腐の歴史」とか「高野豆腐の科学」とかという立派な研究書も出されブランドイメージ作りまで行なわれたんですよ。
宮島 へぇ、県を挙げて特産品づくりを行なったということなんですね。

「本来の味」の探求へ

第4回<br>伊那谷発-個性ある食文化を全国へ【上】

司会 宮島さんの所も、上伊那の蔵元としては早い時期から県外への販路開拓に力を割いてきたと思うのですが、日本酒とこうや豆腐では、事情はかなり異なりますか?
宮島 違いますね。日本酒メーカーは全国に千数百社ありますから、ある意味で群雄割拠。1つの県が統一したブランドイメージで全国を相手にしたというのは20年程前よりの「新潟の酒」ぐらいではないでしょうか。
登内 こうや豆腐は関西が一大消費地ですが、生産は全国の95%が長野です。産地作りが典型的にうまく行き、他の県にもあったこうや豆腐業者を圧倒してしまった。でも、結局、製造会社ごとに違う問屋と関係を作り、販売地域で住み分けていくという方法は、スーパーなどの全国展開が広がることによってうまく機能しなくなり、県内の業者の競争が激化して、現在では4社しか残っていないのです。
宮島 先ほど業界を挙げて製造技術のレベルアップが図られたと言われましたが、技術が一定のレベルに達すると各業者の個性がなくなったりしないのでしょうか?日本酒では、コストを下げて量をふやすために醸造用アルコールをかなり入れる「三増酒」というのがありまして、バブル期後半頃からこれに対抗して、吟醸仕込みの淡麗でよく磨いた酒が出された。その典型が新潟の酒なのです。それが当ると皆、後を追って一時期は消費量を延ばしましたが、しだいに各蔵の酒の個性がなくなり、その後の客離れを招く1つの要因になってしまいました。
登内 こうや豆腐は惣菜の材料ですから、今のお話のようにまでは影響がなかったですね。ただ、昭和50年代をピークに消費量は確実に落ちています。それで、こうや豆腐をただ四角く切ったものだけではなく、小さく切ったり、スープをつけたり、さらには当社の方で味をつけて炊いてしまい、それをチルドにして販売するということも始めました。
司会 同じ味付けにしてしまうと、なにか地域ごとの個性がなくなるように感じますが?
登内 こうや豆腐がよく使われるのは煮物ですよね。地域で味が違うし、炊き方も違う。だから私たちも調理の仕方などはあまりコメントしない方がよいだろうと考えていたんです。でも、伝統食が継承されないようになってくるとそれではうまく行かない。本当に美味しいこうや豆腐の食べ方はこうなんだよ-と実例を示さないとならなくなった。「食の個性化」の点から言えば、そうやって「こうや豆腐の個性」を人々に知ってもらおうとしたわけです。

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