【カメラリポート】シベリアの友へ 菊に込められた想い
伊那市 辻本武良さん
伊那市小沢の国道361号線沿いでは、今年も見事な菊が咲いている。
伊那市の辻本武良さん、83歳。
終戦後、シベリアの抑留生活で多くの仲間を亡くした。
「シベリアで死んでいった仲間たちに花を手向けたい」
そんな思いから、毎年丹精込めて手入れをし、自宅近くの田んぼの脇にきれいな菊の花を咲かせる。
今年もそのかいあって、辻本さんの菊は今、ちょうど見ごろを迎えている。
シベリアで4年間の抑留生活
太平洋戦争勃発後の1943(昭和18)年に、当時18歳の辻本さんは満蒙開拓青少年義勇軍として満州へ渡った。
当時の二男、三男は当たり前のように、義勇軍として満州に駆り出されたという。
1945(昭和20)年、陸軍の2644部隊に配属され満州で終戦を迎える。
終戦直後の8月19日、旧ソ連軍の捕虜となり、それから4年間、極寒の地シベリアで抑留生活を過ごす。
「わしと一番仲良くしていた友達が、『おらはうちに帰る、うちに帰る』って。その冬だに。文通ができるわけじゃないんだけど、家からそう言ってきたという。もう頭がおかしい。もうこれはだめだ」
そして、決して忘れられない出来事が起きた。
「どうしたっ」
「おらんのだよ」
「おらんで、どこか(戸)が開く?」
「いや、全部閉めてある」
「いや、そんなことはない」
「おらなきゃ、どこかが開くはずだ」
「そういえば窓…、窓が開くかな」
「そりゃそこだ!」
緊迫したやり取りの末、辻元さんが目にしたのは、一番仲良くしていた友の姿だった。
「もう家へ帰った後…。抱くに抱けんの。凍ってコチン、コチン…抱いてやったけど、惨めだったよ。南方で(戦っていた)兄さんが帰ったで、おれも帰るって言って。帰れもせんのに窓をこじ開けて、窓の外に凍って横になってました。思い出しただけでも、今ほんとに夜寝れんときがある…」
涙で言葉を詰まらせた。
戦争中よりシベリアでの抑留生活のほうが辛かったと話す辻本さん。4年間の抑留生活を生き抜き、1949(昭和24)年に伊那の地に帰ってきた。
友に捧げる
菊は、今年も見事な大輪の花を咲かせた。
菊の前に立ち、「シベリアエレジー」(作詞・作曲 古賀政男)を歌う辻元さん。
「シベリアの友よ、聞いてくれたかや」
そう言って空を見上げた。