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伊那谷に輝いた化学工業の光【IV】
-「同時に2つの道を選べないのが人間の救い」
大明化学工業(株)
取締役相談役
池上房男さん(92歳)

伊那那毎日新聞社創刊50周年企画
伝承 上伊那経済の牽引者たち

伊那谷に輝いた化学工業の光【IV】<br>-「同時に2つの道を選べないのが人間の救い」<br>大明化学工業(株)<br>取締役相談役<br>池上房男さん(92歳)

 上伊那郡南箕輪村に本社を構える大明化学工業の現相談役・池上房男さん(92歳)の特集後編。前回は、上伊那の多くの経済人がその実績を認める池上さんの経営哲学にスポットをあてた。今回は、池上さんのお話をもとに大明化学工業の歴史をエピソード的にまとめた。
【毛賀沢明宏】

郷土資源活用を目指して創業

伊那谷に輝いた化学工業の光【IV】<br>-「同時に2つの道を選べないのが人間の救い」<br>大明化学工業(株)<br>取締役相談役<br>池上房男さん(92歳)

 大明化学工業の前身、合資会社大明化学工業所は、1946(昭和21)年に南箕輪村の現在の地に創設された。社長は池上さんの義兄、故・松本武枩氏。郷土資源である白土の有効活用を目指してのことだった。
 上伊那には駒ヶ根市の東伊那や伊那市の手良などにアルミニウムの原料になる白土が採れる地点があり、第2次大戦前からそれを利用して硫酸アルミニウムを製造する会社が当地に2社あった。用途は、製紙業で紙にインキがにじむのを防ぐ「サイズ剤」と、水道水の「浄化剤」だった。
 池上さんはこの年のはじめ、年老いた父、故・勇太郎氏から帰郷するよう再三にわたり頼まれていた。だが、戦中を通じて勤務していた日立製作所亀戸工場では重要な調達の仕事をしており、会社がなかなか聞き入れてくれず、ようやく帰郷の手はずが整ったのは夏も近くの頃であった。
 池上さんの帰郷を知った松本氏が、工場設立のために設備の調達を手伝ってくれ」と依頼。亀戸工場時代に調達を担当し、工作機械などの協力会社に知り合いが多かったことを見込まれてのことだった。
 「機械をそろえるのを手伝うくらいの気持ち」でそれに応じた。当時35歳。機械関係の仕事に就くことが長年の希望であり、専門外の化学の仕事にその後ずっと従事することになるなどとは夢々思っていなかったという。
●信用を大きく広げた「決断」
 「今だからこそ話せることなのですがね」
 設立後1年を経た1946年のある日、東京都水道局の職員が、大明化学工業を訪ねてきた。当時伊那北駅近くにあった別の会社を訪ねてきたのだったが、駅を間違えて降りてしまった。次の電車を待って駅員と話すうちに、北殿駅にも硫酸アルミ二ウムを出荷する会社があると聞き、訪ねてきたのだという。
 「最初はね、ウチの製品では都水道局の基準をクリアできないだろうと思い、お断りしたんですよ」
 だが、その職員たちは同じ日に、再び訪ねてきた。伊那北の会社を訪ねたが不在だったというのだ。
 話を聞くと、その年東京を襲ったカスリーン台風で、浄水剤・硫酸アルミニウムを納めていた東京の大手化学会社が壊滅的被害を受け、新宿淀橋浄水場の在庫があと3日分しかないとのことであった。
 当時の工場には45トンほどの在庫があった。だが、鉄道事情が悪い折、貨車を手配するだけで3日間が必要。それでは間に合わない。
 そこで池上さんは、既に別の製紙会社あてに発送した硫酸アルミニウムを急きょ送り先を変更して届けることを決断。製紙会社の在庫がまだ10日分ほどあることを確認した上で、ちょうど東京都の立川駅と国分寺駅に止まっていた貨車を、そのまま淀橋浄水場に差し向けた。こうして、東京都民の「命の水」を守ったのだった。
 「長い経営の中にはそんな偶然もあるものですよ」と笑う。だが、収益的には利益の大きい製紙会社の方を待たせて、都民の切迫した状況を救ったこの行動に、都水道局は大いに感動した。こうして、新設会社では考えもつかなかった都水道局との取引きが始まった。

新たな試練の中での研究所設置

伊那谷に輝いた化学工業の光【IV】<br>-「同時に2つの道を選べないのが人間の救い」<br>大明化学工業(株)<br>取締役相談役<br>池上房男さん(92歳)

 当時は物不足の時代。特に砂糖・セメント・紙は需要が大きく、関連事業は「三白景気」と呼ばれた好況を示していた。事業は順調に滑り出し、1948(昭和23)年には株式会社形態に改組した。
 しかし、新たな難局が待っていた。硫酸アルミニウムを使った製紙用剤と浄水剤は、どちらも民需品だったためJIS(日本工業規格)の指定品目になるのが早かったのだ。
 規格をクリアするためには、伊那谷の白土が含む鉄分などの挟雑物を除外しなければならないが、それは技術的には可能でも経済的に採算が合わなかった。特に、大手化学メーカーが水酸化アルミニウムを原料にして浄水剤を製造する方法に切り替えたことの影響が大きかった。
 しかも、当初は有力な取引先とにらんでいた県内の製紙工場は先行他社に抑えられていたため、取引先は県外に集中。当然、流通コストも大きかった。
 こうした状況が次第に明白になってきた1949年ごろ、池上さんは、会社としての事業収益が出ていたにもかかわらず、廃業を強く主張した。地域資源の質、工場立地の地理的条件から、従来の製品だけでは早晩、会社経営が成り立たなくなると見通したのだ。
 しかし、当時の会社の役員は納得しなかった。事業収益が出ていたのだからそれは当然だったともいえよう。復員帰還者も多い中、伊那谷には企業が少なく、雇用の場を減らせない事情もあった。
 何回もの会議の後に、池上さんは、結局、将来を賭ける新製品開発に乗り出すしかないと考え、研究所の設置を提案した。
 もちろんこれにも、「新製品開発など地域の中小企業にできるはずがない。日立製作所とは違うんだ」などとの反論があったという。だが、これを敢然と押し切り、1950(昭和25)年に研究所を設置した。「大企業には量的に魅力のないものを、大企業以上の品質で」という考え方にもとづく、製品開発と品質管理の歩みはこうして始まった。
 「よく、『先見の明がある』と言わますが、そうではないですよ。会社が置かれている状況をよく見極めて、やるべきことを断固としてやっただけなのですよ」。池上さんはこう振り返る。

「人は何のために働くのか?」を考えて

伊那谷に輝いた化学工業の光【IV】<br>-「同時に2つの道を選べないのが人間の救い」<br>大明化学工業(株)<br>取締役相談役<br>池上房男さん(92歳)

 「生きるか死ぬか、苦しいほど悩んだのはあの時でした」
 池上さんがそう語るのは、さらに2年後の1952(昭和27)年のことだ。
 その前年から、新製品開発や品質管理を進めるための資金的な問題が生じ、金融機関からは、出資者の一人であった故・武井方介氏(辰野町武井家)が社長に就任するよう要請が来ていた。だが、武井氏は人格者で「後から出資したものが社長に就くことはできない」と拒み続けていた。
 その武井氏が、再三にわたる金融機関の要請の前に、当時常務であった池上さんが実質的な経営の責任者になることを条件に、非常勤での社長就任を受諾したのだった。
 池上さんは困った。尊敬する武井氏の名声に大きな影響を与えかねない責務を自分が引き受けきれるのか?武井氏に背中を押される形で始めた新製品開発と品質管理の道もまだ途上であった。だが引き受けなければ金融機関の融資は受けられず、会社と従業員の雇用を守れなかった。
 取引先の大手商社の部長に相談するため上京したが、期待したような返事も受けられず、途方にくれたまま帰路に着いた。
 思い悩んだ帰路、母親、故・とみさんのことを思い出した。とみさんの実家は日蓮宗であり、その総本山である身延山の話を、子どもの頃によく聞かされていた。「身延山に参ってそこで決めよう」と思ったのだという。
 池上さんは、山梨県の甲府駅で「夢遊病者のように」汽車を降り、そのまま身延山をたずねた。だが、夕刻だったため、身延山まではたどり着けず、下部温泉に投宿した。
 「経営を引き受けるか、どうするか」……
 場末の宿で、火鉢の上でシュンシュンと音を立てるやかんを眺めて思いを巡らした。
 「幸せと言うものは銭で買えるものではない」
 子どもの頃にとみさんから言われた言葉を思い出し、たどり着いた根本の問題は、「人は何のために働くのか?」だったという。
 「人間は本来自分で働き自分で食べる自給自足の生活を送っていましたよね。それが物々交換の時代を経て、貨幣で媒介される分業が始まり、企業がそれを分け持つようになった。この時代では、生計を立てるための仕事が職業であり、その働く場が、職場であり企業なのだと考えたわけです。だから人間が生きていく限り企業は永続させなければならない。当時従業員が38人いましたが、この従業員が生きていくために会社を永続させなければいけない。こんな答えにたどり着いて、経営を引き受けようと決心したんですよ」
 翌朝、身延山に参拝し、心を決めた。この決断が、大明化学工業の今日を決定付けたものであったことは言うまでもない。

JIS表示優良工場としての歩み

伊那谷に輝いた化学工業の光【IV】<br>-「同時に2つの道を選べないのが人間の救い」<br>大明化学工業(株)<br>取締役相談役<br>池上房男さん(92歳)

 経営者としての様々な葛藤を抱えながら、池上さんは、1951(昭和26)年頃から品質管理の試みに着手した。当時の伊那谷では先駆的だった。
 2年後の1953年には硫酸アルミニウム2号のJIS規格表示許可工場になり、その翌年には東京通産局長のJIS表示優良工場表彰を受賞。その後も数々の表彰を受けるなど、JIS表示優良工場としての歩みが同社の歩みだった。
 だが、池上さんは「最初はあまり標準化ということを意識していたわけではない」と話す。
 当時の従業員には農家の二男・三男が多く、農繁期になると会社を休む人が多かった。特に熟練工が休むと工程がすべて止まってしまうことさえあった。こうした状況を打開するために熟練工の技術を細分化し、仕事の基本さえ決めれば誰でもできるように試みたのが始まりだったと言うのである。
 もちろん当時は、品質管理や標準化は地方には浸透していない時代で、指導的立場にあるものを東京に送り出して最先端の考え方を研修させるなどの苦労を重ねたと言う。
 「社会のためになる良い製品を作るために品質管理、それに結びついた安全衛生管理はとても大切でした。でも、その中でいろいろな問題を感じたのですよ」
 一つは、標準化を通じて熟練工の技術が細分化していくと、熟練工がプライドを傷つけられ、会社内の人間関係がうまく行かなくなることであった。
 もう一つは、品質管理と結びつけて安全管理などを進めると、何のためにそれを行なっているのか分からなくなる事態が生じることであった。
 後者については、忘れられない思い出がある。1957(昭和32)年に伊那の労働基準監督署の主管した「安全競争」で同社が表彰された時のこと。工場を見回っていると、ある女性従業員が右の人差し指に包帯を巻いており、理由を聞くと「夕べ家で調理の時、包丁の使い方を間違った」と答えた。席に戻ってから「あの人は左利きだったか?」と不審に思い、再度問いただしたところ、「仕事中に怪我をしたが、班や会社の成績に傷をつけられないと思いうそをついていた」と泣きくずれたのだった。
 〈目的〉と〈手段〉が逆転してしまっている-このとき強くそう意識したという。
 これらの問題を解決するために、池上さんは、「会社の目的は成長ではなく永続・安定である」ことを明確にし、品質管理・安全衛生管理・倉庫管理などの面で自分が勉強してベテランになることそれ自体が、従業員一人ひとりにとっての成長につながり、賃金的にも向上につながる仕組みを目指してきたのだという。
 ◇ ◇ ◇
 伊那谷の化学工業に賭けた池上さんの60年間。その足跡を、一朝一夕で聞き尽くすことはとてもできない。
 だが、紹介した、特に創業後10年の間に池上さんが悩み・苦しみ・決断した事柄が、今日の大明化学工業の礎をなっていることは明らかだろう。
 「私はね、本当に機械が好きで、機械の仕事をやりたかったんですよ」
 機械の技術屋になりたくて旧制長野工業学校に入り、卒業後も一貫して機械技術者の道を望み続けた。しかし、学んだ学科が機械電気科だったがゆえに取得した第3種電気主任技術者の免許が思わぬ影響を与えた。「機械か、電気かを選ぶ岐路ではいつも電気の方に引っ張られた」のだ。
 大明化学工業に移ってからも、「機械をやりたい」という思いは断ちがたかった。
 だが、「従業員の雇用を守るために」と自分をたしなめ、化学の仕事に全力投入するうちに、ますます思いは実現不可能になっていったのだという。
 「同時に二つの道を選べないのが人間の救いなんですよ」
 たとえ若い頃の志とは異なろうとも、「従業員を守る企業」の道に徹してきた人。その人でなければ、決していえない言葉ではないだろうか。(つづく)

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