瑞宝双光章を受賞
中島實三さん
取り消された命令が運命の分かれ道
1941(昭和16)年10月6日付けで駆逐艦「漣」(サザナミ)に転勤を命じられた。昭和10年に志願して海軍に奉職以来、戦艦「長門」「陸奥」重巡洋艦「摩耶」などの大型艦に乗り組んできたが、一転して軽量の駆逐艦勤務。「もうすぐアメリカと戦争が始まりそうだし、いっちょう敵さんをかき回して大暴れしてやるか」と張り切った。大型艦に比べて駆逐艦は沈没の危険性がはるかに高いのだが「特に考えなかった」といい、戦友らと別れの杯も酌み交わしたが、どうしたことか命令は立ち消えになってしまった。軍隊で一度出された命令が取り消されるなど通常あり得ないのだが「中島をなぜ駆逐艦なんかにやるか!」と憤慨した上官が断固として命令書に承認の判を押さなかったのだ。
「今にして思えばあれが運命の分かれ道だった。あのまま漣に乗っていれば確実に死んでいたんだから」
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飯田の農家の二男として生まれ育ったが、昭和初期の大不況で就職先はまったくなかったため、18歳の時に志願して海軍へ。最下級の四等水兵から軍隊生活は始まった。「一般社会を娑婆(しゃば)と呼んで区別するくらい隔絶した別世界。その訓練のものすごさは言葉では言い尽せないほどだった」教育を終えて配属になったのは当時の連合艦隊旗艦「長門」。乗組員総数は千人を超え、司令長官も乗っている水兵あこがれの船だった。
昭和16年12月、太平洋戦争開戦。フィリピンやスマトラなど南方各地やアリューシャンなどの北方にも出撃し、敵艦との砲撃戦を経験した。「ある日敵の駆逐艦を砲撃で沈めた。一夜明けると海面に敵の将兵がたくさん浮いている。敵とはいえ戦いが終われば人間同士なんだから皆で船に引き上げて助けてやったよ。ところがその収容作業の最中に別の敵艦からの攻撃を受けたものだから救助は即中止。まだたくさん浮いている敵兵を見殺しにしてその場を離れなければならなかった。必死で助けを求める彼らの姿はかわいそうだったね…」
幾多の戦地勤務を経験しながら順調に昇進し、昭和20年には兵隊からの叩き上げとしては最高位に近い兵曹長(准士官)にまで上り詰めた。
終戦の報は岡崎航空基地で聞いた。「陛下の玉音放送を聞いたんだが、ラジオの音質が悪くてお言葉はまったく聞き取れなかった。放送が終わって泣き出す者がいたので、ああ日本が負けたんだなと分かったが、やっと終わったか、といった印象でこの時にはもう特別な感慨もなかったね」
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復員後、軍隊はなくなってしまったが、国家に奉仕する道として警察官を選んだ。もっぱら刑事畑を歩き、その後駒ケ根署、辰野署、大町署などの署長を歴任。戦時中の勲八等瑞宝章と合わせ、今年88歳になったのを機に2つめの勲章、瑞宝双光章を受章した。現在は「ここの人たちの温かみが好きで」駒ケ根に居を構える。「靖国神社には毎年参拝に行っていますよ。国のために命を落とした彼らの魂を慰めるのは、生き残った者として当たり前のことだからね」
(白鳥文男)