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上伊那の駅伝

強さを支えるもの(上)

 今年で54回を数えた県縦断駅伝(県縦)は、上伊那が3年ぶりに王座を奪還。優勝回数実に33回と、他地域を寄せつけない圧倒的な強さを誇る。27日には、第53回郡縦断駅伝(伊那毎日新聞社、上伊那陸上競技協会主催、KOA特別協賛)が駒ケ根市縲恍C野町間で開かれる。上伊那を優勝に導いた各選手が市町村別に分かれて激走を繰り広げる。半世紀の記録をたどって、将来への展望を探る。
 ◇ ◇
 終戦の混乱から世間がようやく落ち着きを取り戻しつつあった1952(昭和27)年、松川町から辰野町までの10区間54・4キロをコースに郡縦断駅伝(郡縦)がスタート。同じ年、飯田市から長野市までの17区間221・9キロに及ぶ県縦が幕を開けた。
 上伊那の選手は農業従業者を中心としていた。1回大会から30年連続出場し、上伊那を17回の優勝に導いた倉田正利さん(72)=駒ヶ根市=は「青年会の運動会で市内を走っていた程度」だったが、県縦に出場するようになってからは、起伏の激しいコースを日々10キロ以上走り込むなど、練習に力を注いだ。
 運動靴がなかった当時は、足袋の裏にゴム板がついた・スマラソン足袋・スで走っていた。・スがにまた走法・スだったため、側面がすぐに破れ「いくど足袋を代えたかわからない」ほど。
 交通量の増加に伴い駅伝を取り巻く環境が厳しくなり、トラックの練習が多くなっている現状に、倉田さんは「交通量が少ない時間やコースを選べばいくらでも練習は可能。一人ひとりが研究してレベルアップを図っていかなければ将来は望めない」と指摘する。
 県縦の2、3回大会で連勝した上伊那。「上伊那陸上協議会の全面的なバックアップに加え、山間地という環境にあって、足腰が鍛えられたことにも上伊那の強さの要因がある」とする倉田さん。
 3連覇のかかった4回大会の2日目、4位でタスキを受けた12区山岸昭雄が、伴走していた監督車と接触して無念の途中棄権。以降第9回まで、下伊那や全諏訪とともに南信勢のトップ争いに君臨するも、2、3位に留まった。
 全諏訪が3連覇し、全盛期を迎えた7縲・回大会。同チームの・スダントツ・スの強さに、上伊那の優勝は厳しい状態にあった。しかし、節目の10回大会で、上伊那は8人が区間優勝、うち6人が区間新をたたき出し、7年ぶり3度目の優勝を手にした。
 県縦で最も距離が長い上伊那区間。7回大会から出場し、区間優勝16回の過去最多記録をもつ上島元辰さん(65)=辰野町=は、地元の4区を8回走った。「上伊那は沿道の応援に恵まれていた。小旗を振っての大声援に後押しされ、本当に力になった」とし、地域が一体となって上伊那チームを支えたことが強さに結びついていると強調する。
 当時の長距離ランナーにとって、県縦の選抜メンバーに選ばれることは何よりの誇りだった。
 上島さんは「誰もが他の大会より、県縦断に目標を定めていたと思いますよ。何回も予選会をやったし、激戦でした。秘密練習っていうほど、大げさなものじゃないけど、練習していることも公表しなかったくらいライバル意識があったんですよ。それが逆に、一人ひとりのレベルを上げ、チーム力アップにつながったんですよね」と話す。
 3連覇を成し遂げた12回大会。しかし、21回大会まで、全諏訪との一騎打ちは続いた。
 このころ、郡縦では箕輪町が第5回大会から6連覇。以降22回大会までは箕輪町と辰野町のトップ争いとなった。上島さんをはじめ、唐沢君雄、唐沢平一、唐沢公雄、竹入平治、根橋唱二、手塚健司、中村勝秀各選手が上伊那の選抜メンバーに名を連ね、全諏訪との激闘を繰り広げていた。
 22回大会から上伊那は10連覇。その原動力となったのが駒ケ根市に本拠を置く実業団「養命酒」だった。
 毎回、上伊那の主力は養命酒陸上部の選手たち。県内の実力者が次々と入部し、黄金期を迎えた。
 当時のエースで現在は同社陸上部の監督を務める北原治さん(53)=駒ヶ根市=は「そのころは自分たちも頑張ったし、会社も全面的に協力してくれた」と振り返る。
 高校時代は短、中距離を専門としていた北原さんが、同社に入ったのは71(昭和46)年。「県縦断駅伝のこともほとんど知らなかったし、長距離を走るとは思わなかった」が、同社陸上部で当時監督を務めていた唐沢君雄さんは長距離を強化していた。
 養命酒はそのころ岡谷市に工場があり、「全諏訪」が上伊那と常に優勝争い。しかし、同社が73年に駒ケ根市に移転し、上伊那は他の追随を許さない厚いな選手層となった。
 高いレベルの選手たちが集まることで、刺激が生まれた。入社当時は他の選手から大きく遅れた北原さんだが、毎日30キロに及ぶ走り込み。入社1年目から県縦に出場するほど、走力は上がった。
 10連覇が始まった22回大会から助監督を務め、26、27回は監督を務めた現上伊那陸上競技協会の大井初己理事長(64)=駒ヶ根市=は「そのころの選手はみんなしたたかだった」と話す。
 風邪をひいていても、本番までには必ず調整。故障を抱えていても、期待通りの走りをした。
 自己を管理する能力の高さと、プレッシャーに負けない絶対的な練習量。
 「距離をこなさなければ、絶対に強くなれない。私が長く選手として活躍できたのも練習のおかげ」と、23回連続で選手として出場した北原さんは言葉に力をこめる。
 大井さんは本来、走り高跳びが専門。選手として県縦の出場はない。
 そんな大井さんに駅伝を強化してほしいと要請があったのは30年以上も前のこと。「それまで県縦は遠くから眺めていただけ」だったが、伊南地域の選手指導、さらには発掘まで手がけた。
 当時行われていた長野から直江津の間を走る「信越駅伝」に伊南チームを結成して参加。高校生の選手も入れて多いときには3チームで遠征した。
 当初は低迷したが、徐々に力をつけ上位を争うほどに。実業団とは違った側面から、上伊那の駅伝を支えた。

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