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伊那谷が産んだコンデンサーの世界企業【I】- いつもルビコン河を渡る気概で - ルビコン会長 登内英夫さん(88)

伊那毎日新聞創刊50周年企画
伝承 上伊那経済の牽引者たち

伊那谷が産んだコンデンサーの世界企業【I】- いつもルビコン河を渡る気概で - ルビコン会長 登内英夫さん(88)

 伊那市西箕輪の森の中に本社を置くルビコンは、アルミ電解コンデンサーで世界トップクラスの技術を持つ業界のリーディングカンパニーだ。伊那市に開発拠点と工場を、国内11カ所・国外9ヵ所に営業所を構えるほか、約20のグループ会社を国内外に持つ。取引き先は全世界に広がり、売上高は666億円(2004年9月期)に上る。本社だけでも550人、グループ会社をあわせれば約3000人が働く、伊那谷が世界に誇る電子部品製造企業だ。
 現会長の登内英夫(てるお)さんは、1952(昭和27)年に日本電解製作所を創設。以来一貫して技術開発・製造・営業の先頭に立ち、ルビコンの現在を切り開いてきた。
 会社経営と同時に、1967(昭和42)年以来8期32年にわたり県議会議員(1977年から1年間は、県議会議長)を務めるなど、地方自治においても活躍した。
 その政治家としての横顔も興味の引かれるところだが、この特集では、上伊那経済を牽引してきた経済人としての生き様に焦点をあて、伝承するべき企業経営の理念・手法と、その背後にある青年期の苦闘などを浮き彫りにしたい。 【毛賀沢明宏】

企業の社会的責任を見据えて

伊那谷が産んだコンデンサーの世界企業【I】- いつもルビコン河を渡る気概で - ルビコン会長 登内英夫さん(88)

 「企業には果たすべき社会的責任がある。そのことを若い世代の経営者には、ぜひ理解していただきたい」
 88歳。「年をとったよ」との言葉とは裏腹に、じつに矍鑠(かくしゃく)として話す。
 企業は永続的なものでなければならず、その最大目的は社会に貢献することだ竏窒ェ自論だ。
 コンデンサーは別名蓄電器と呼ばれるように、電気を蓄電し、放電する機能を持っている。電流を制限し電圧を降下させる抵抗器、電流を安定させ共振作用を持つコイルとともに、あらゆる電子機器の回路に必須の部品だ。テレビ・ラジオはもちろん、ビデオ・パソコン・携帯電話から自動車・電車・航空機・人工衛星まで、およそ電気が関わるすべてに利用されている。
 ルビコン(その前身の日本電解製作所)創業以来の半世紀は、社会が電気化・電子化された時代だった。新しい電気・電子製品が次々と開発製造され、人々の生活は利便性を増し、生産・製造技術は格段の進歩と発展を遂げた。当然、必須部品であるコンデンサーにも、高品質化とコスト低減が求め続けられた。
 その半世紀にわたり、黙々と研究を重ね、営々としてコンデンサーを生産し続けることができたのは「社会に有用なものを造るのが企業の使命」との確信があったからだという。
 しかも、創業当時の上伊那地域は、戦前から続いていた製糸業が退潮し、それにともなって養蚕業が衰退しつつあった時代だった。戦争中に疎開してきた光学・化学関係の製造業や、地域から勃興しつつあった電子産業が、農村の余剰労働力を吸収して、地域の経済発展の先鞭をつけ始めていた。こうした時代の流れの中で、この地で電子部品の生産を進めることは、「農村の貧困を救い、地域の経済力の隆盛につながる」と信じて疑わなかったという。
 「企業の社会的責任を忘れるな」
 この一言には、戦後の混乱期から、ものづくりの力で、地域を振興し日本経済を発展させようとして生きてきた人の、揺るぎない確信が込められている。
 マネーゲームが横行し、日本経済の「カジノ資本主義」化の傾向が指摘される現在、その言葉はものづくりの本当の重要さを教えるものなのかもしれない。

技術開発は毎日の積み重ね

伊那谷が産んだコンデンサーの世界企業【I】- いつもルビコン河を渡る気概で - ルビコン会長 登内英夫さん(88)

 ルビコンは、その半世紀にわたる歴史の中で、コンデンサーにかかわるさまざまな技術を開発してきた。
 その代表例は、ストロボ用コンデンサー。1960年代後半に、この領域での新技術を開発した同社は、現在でも世界の70%のシェアを占め、デジタルカメラのストロボにいたってはじつに90%のシェアを誇るという。
 ストロボは、瞬時に大きな光源にならなければならない。そのため、ストロボ用コンデンサーには大きな蓄電・放電量が求められた。必要以外の所に電流が流れてしまう漏洩電流を極限まで抑えた精度や、持ち運びに便利な小型・軽量などが求められた。
 ルビコン(当時は信英通信)では、ストロボ需要が高まった1965(昭和40)年ころから、この難問に立ち向かい、他社の追随を許さない高い性能の製品を開発した。
 特に、エッチングと呼ばれる、コンデンサーの陽極になる薄い金属箔に意図的に傷をつける技術では、業界で最良と呼ばれていた方法の枠を取り払い、基本に戻って一から研究をやり直した。その結果、従来よりも40縲・0%も効果が上がる方法を開発し、他社を大きく凌駕したのだという。
 「あの頃は私も若かったから、本当に寝るのも忘れて研究に没頭したもんだよ」と登内さんは笑う。
 ストロボ用コンデンサーの他にも、電源やコンピューターなどに使用する特殊な(交流電流が流れる時の抵抗値=インピーダンス値を低く抑えた)製品でも他社に先んじた。
 電解コンデンサーに代わるフィルムコンデンサーの製造技術も独自開発。さらに、現在では、これまでのコンデンサーの発想とまったく異なる、金属や樹脂の蒸着技術を駆使した新型PMLコンデンサー(同社商品名)の開発に乗り出すなど、新技術開発の例は、数え上げたらきりがない。
 「新技術の開発というと、どんなヒラメキがあったのかと聞く人がいるが、そういうものじゃない。考えられることを一つずつ片っ端からやって、その結果をきちんと調べ続けていれば、なにか新しい問題が出てきたときに生かせるものが出来てくるんだ。それを積み重ねてきたっていうことなんだよ」
 現在でこそ「技術のルビコン」と呼ばれる同社。だが、創業当時は、地方の後発企業の1つで、技術も「人から学んだものばかり」だった。そこから一歩ずつ一歩ずつ、研究を重ね技術レベルを上げてきた。その苦労が滲む言葉ではないだろうか。
 「まぁ仕事が趣味のようなものだったから、楽しく、そういうこともやれたんだと思うよ」
 技術開発について語るとき、登内さんはどこか子どものような、楽しくてたまらないという感じのまなざしになる。

企業は和を持つ集団

伊那谷が産んだコンデンサーの世界企業【I】- いつもルビコン河を渡る気概で - ルビコン会長 登内英夫さん(88)

 「自分で言うのもおかしいが、私はかなりワンマンな社長だった。 
 小さい会社の頃はそれでも良かったが、規模が大きくなってきてそれではいけないと思い、集団指導制に徐々に移ってきたんですよ」
 こう振り返るのはバブル経済の好況で沸き立っていた1990年代初頭のことだ。
 未曾有の好況が続くただ中で、登内さんは「好況不況は裏腹。良い時があれば必ず悪い時がやってくる」と確信して、同社の歴史上最大規模の組織改革を行った。
 品質保証部を技術本部から独立させ役割を強化した。業務部を新設し、国内・海外工場の製造・生産体系の一括管理を始めた。開発部も新設し、自動化設備の構築を強力に進めた……
 中国をはじめとするアジア諸国の経済伸張が著しく、国際競争が激化するなかで、どんな経済環境の変化にも勝ち抜く一層の組織体質の強化を目指したものだった。
 この時に、登内さんは、「現状をベストだと錯覚してはいけない」と経営陣や従業員に繰り返し説いたという。
 「企業人は進歩と発展のために終生努力すべきで、そのためには問題意識と反省を忘れず、絶えず工夫と改善を重ねよ」竏窒ニ。
 歴史上最大規模の組織改革は、こうした企業活性化についての登内さんの考え方・姿勢を会社全体に徹底し、新たな人材・企業リーダーを育成するためにも実行されたのだった。
 だが同時に、「企業は和を持つ集団である」ことも強調した。「企業は人であるというが、より大切なのは人の和だ」。そのために、「自我を主張する前に、他人の主張に耳を傾ける雅量を持て」竏窒ニ。
 社員が一致団結し、高い目標に向かって進む時に、はじめて成果が生まれることを訴えたかったのだという。
 こうした思いは、じつは、企業経営者としての半世紀に及ぶ経験の中で、主に従業員との間で教えられ、育まれてきたものだった。
 その発端は、仲間3人で設立した伊那通信工業という会社を去った1953(昭和28)年にまでさかのぼる。
 抵抗器とペーパーコンデンサーを作ったその会社は業績も良く、利益も出たが、役員3人のうち2人は役員での利益配分を主張。登内さんは再投資を主張して対立し、結局その会社を辞した。
 「こんなに早く辞めることになるのなら、会社は儲からなくてもいいから、もっと従業員の待遇を良くすればよかった…」
 涙ながらにつぶやくと、後にルビコンエンジニアリングの専務も勤めた故今井孝定さんが「社長、そんなもんじゃないよ。社長を応援してくれる人もあるよ」と逆に励ましてくれた。そればかりか、今井さんを先頭に7縲・人が、登内さんを追って会社を辞めたのだった。
 「従業員あっての企業だ」。この時確信した。このときの経験が、その後の経営哲学の根底にあると、登内さんは振り返る。ちなみに伊那通信社は1年後に倒産した。
 その後、1956(昭和31)年、当時伊那市山寺にあった工場が火災で全焼した際も、 1970年代後半、昼夜操業の開始とそのための新工場設立の際にも、従業員の協力と会社の和が重要だとつくづく教えられた。
 ルビコンの社歌にも歌われる「ともに」の精神の重要性を、体に刻み込ませてきたのだという。

「賽は投げられた!」

伊那谷が産んだコンデンサーの世界企業【I】- いつもルビコン河を渡る気概で - ルビコン会長 登内英夫さん(88)

 伊那谷の誇る世界企業ルビコンの創業者登内さんの企業経営の理念・技術開発についての考え方・会社組織や従業員に関する経営哲学を見てきた。
 だが、上伊那経済を牽引してきた登内さんを語る場合に忘れてはならないのは、「やるとなったらとことんやる」「不撓不屈」の人生哲学ではないだろうか。
 「決めたことは絶対にやりぬく意志の人」「良くも悪くも頑固一徹」「途中で投げ出すことは絶対にしない」……登内さんを良く知る人で、このように評する人は多い。
 会社経営にせよ、技術開発にせよ、粘り強く、着実に、そして一途に、目的実現を目指して努力し続けてきたからこそ、現在の位置にあるのだ。
 その強靭な意志性は、じつは「ルビコン」という社名にも込められている。
 現在の社名「ルビコン」は、1990(平成2)年、以前の「信英通信工業」から変更されたものだ。「ルビコン」はそれまで同社の製品名だった。
 この名は、古代ローマ帝国の礎を築いたシーザーに由来する。ガリア地方に遠征中、本国でのポンペイウスら反対派の暗躍を知ったシーザーは、帝国の全権を掌握するために、軍の侵入が禁じられていたローマに進軍する。ローマ国境を流れるルビコン河を前にして逡巡する部下を叱咤、「賽は投げられた!」と叫んで先頭でルビコン河を渡河したのだ。
 シーザーのこの不退転の決意を我が物としたい。自らの会社の精神的支柱にしたい。
 「ルビコン」の名を選んだ時の登内さんの思いはこういうものであったのだろう。
 「決めたことをやりぬく」意志の力は、いま・ここで、現在と未来のすべてを賭けて、「やるんだ!」と決める、その決断の深さに決定される。
 このことを理解する者だけが、シーザーの故事に限りない憧憬の念を抱くのだ。
 1952年、35歳で、この伊那谷に電子工業部品の会社を創業した登内さん。その時の「やるんだ!」の決断には、未来への大きな展望と、地域産業振興の固い信念が込められていたに違いない。
(続く)

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