伊那谷が産んだコンデンサーの世界企業【III】登内英夫さん
-「人との出会いに恵まれたんだよ」-
伊那谷が誇る世界企業ルビコンの創業者、登内英夫さん(88)の素顔に迫る特集の3回目。前号までは、「有用な物を提供し社会に資すること」を責務とする企業理念や、技術開発についての考え方、会社組織に関する経営哲学、さらには「いつもルビコン河を渡る気概で」という人生哲学について触れた。
では、登内さんは、どのようにしてこのような考え方を培ってきたのか? 「人との出会いに恵まれたんだよ」と語る、少年期から企業経営が軌道に乗る青年期までのエピソードを中心にまとめた。【毛賀沢明宏】
貧しい農家への反発
「百姓はどうしてこんな苦労を味あわなければならないのかと、いつも悔しかったんだよ」
昔を思い出すように話し始めた。上伊那農業学校(現在の上農高校)時代のことだ。当時の上農は、農業が主流の時代であったこともあり、農家だけでなく町の家からも優秀な子弟が集まってきていた。
手良沢岡の農家の長男。家族は、朝暗いうちから、夜暗くなるまで働きづめだった。それでも、収入は少なく、毎月4円80銭の授業料を納めるのに、時おり父・故巳義さんが金の工面に奔走するのを、心を痛めて密かに見つめていた。自身も土日や長期休暇ばかりか、毎日学校が引ければ、田んぼや畑に借り出され、「泥にまみれて」働いていた。
仕事は子どもの頃からのことだったので苦痛には感じなかったが、学校で町家出身の同級生の生活ぶりを見ると、そこに「のどかな余裕」を感じ、「どうして百姓だけが…」の思いを強くしたのだと言う。
悔しさは、「町家の子だけには負けたくない」というライバル心につながり、農業実習の傍ら、懸命に教科の勉学に励んだ。英語や国語は苦手だったが、化学や数学が大好きだった。
ここで学んだ基礎知識が、その後の人生に大いに役に立ったのは明らかだ。だが、登内さんは言う。
「百姓だけがこんなに貧乏なのはどうしてなんだ、と強く疑問を抱いたことが、僕の人生で最初の大きな転機につながったんだよ」竏窒ニ。
化学の道へ竏秩u工学博士・向山先生との出会い」
1935(昭和10)年、上農卒業。満州事変勃発から4年後、町には東海林太郎の「国境の町」が流れ、映画「愛染かつら」が大ヒットしていた頃。日本経済は不況のどん底で、失業者が町にあふれていた。
「百姓からの脱出」を決心していた登内さんは、父親の理解もあり、学校の斡旋で県産業組合への就職が内定していた。だが、手続きが遅れたため、半年間職につけず、実家の手伝いをしながら悶々とした日々を送っていた。
「人との出会いとは、ああいうものなんだなとつくづく思うよ」
ちょうどその時、同じ手良村出身の故向山幹夫工学博士が、南佐久の小海町に電気製鉄工場をつくるという話が「村報」に掲載された。「すぐにでもサラリーマンになりたい」との熱い思いから、ただちに飛びついた。運良く博士の実弟(当時の手良村長)が父親の友人だったことから、その紹介で面会することができた。
だが、初めての面会の日にハプニングが起った。近くで山火事が起こり、消火に飛び回って家に戻ると博士から「実家に来ているからすぐに来るように」との連絡が来ていた。大慌てススだらけの顔を洗い面会場に急いだ。
「なんだ、その顔は!」
向山博士の第一声だった。洗ったつもりだったが、まだ顔にススがついていたのだ。ただでさえ工学博士の威厳の前に小さくなっていたが、ますます恐縮して、「後は何を聞かれたのかも良く覚えていない」。
それでも、採用された。向山博士は、目の前に現れたススで顔を汚した少年を見て、少年の胸に秘められた「どうして百姓だけが……」の強い思いを、より切々と感じたのかもしれない。
とにかくこの日から登内さんの生活は一変した。小海工場の研究室に配属され、思う存分化学の研究に没頭した。好きな仕事を得たことに大いなる喜びを感じて励んだ。
研究テーマは、国内の赤土に約20%ほど含まれるアルミニウムの精錬方法。それに、従来の方法では生産コストがかさむ鉄分の含有率が60%以下の鉄鉱石の利用方法。
いかに上農で化学が好きだったとはいえ、専門知識を要する難しい課題だ。必死に勉強した。当時の同僚が「いつ眠っていたのか?いつも勉強していて、寝ているところ見たことがなかった」と言うほどだった。
当初、給料は安く、月18円。同年代で繊維産業の鐘紡に就職した従弟は月40円。それでも、研究に没頭した。
「父親のツテで採用してもらったんだから、移ることなんかできるわけなかったんだよ」と、登内さんは笑う。
だが、真実は、向山博士との出会いによって、自分の夢が実現できる道が開けた以上、それにかけること以外は考えもしなかったということに違いない。
研究と勉学に没頭した青春時代
「小海町、東京、そして台湾の13年間は、研究と勉学に没頭した私の青春時代だったよ」
その没頭ぶりは、並大抵のものではない。いくつかエピソードを紹介しよう。
小海工場の研究室には足掛け3年勤務した。その間に、徴兵検査もあった。だが向山博士から「兵隊に行ってもらっちゃ困るな」と言われたこともあり、なんと、1年間にわたって1日2食で減量し、45キロまでやせ細った。徴兵検査は不合格。意図的に免れたのだ。「戦争も軍隊も嫌だった。だがそれ以上に、研究に熱中したかったんだ」。
向学心は燃え盛り、専門知識を得るために上京して大学の夜間部で学びたいと強く願った。その旨を伝えると、日頃から登内さんの勉強振りを見ていた向山博士はそれを承諾。1937年1月に上京した。職場は、博士が嘱託を務める台湾電力の東京支社。台湾に電気製鉄試験所を新設する準備の仕事に追われながら、神田の古本屋街で専門書を漁り、独学で勉強する日が続いた。「どこの本屋にどんな本があるか、だいたい覚えてしまったよ」と笑う。
1937年、台湾本社勤務の辞令を受け、台湾に渡ったが、向学心は強くなるばかり。電気製鉄の研究をすべて任されていたが、学歴で辛酸を舐めさせられることも多く、「退社・帰国して学校に通う」と心に決めた。
それを知った向山博士が驚きあわてて台湾を訪れ、必死に引き止めた。かわりに、台湾電力の委託生として当時の台北帝国大学の選科で学べるよう八方手を尽くしてくれた。
台湾独特の蒸し暑さの中、会社の研究所と大学の間を汗をかきかき往復した。最初は理農学部農林専門部。3年間で取得する単位を、1年生の教室・2年生の教室・3年生の教室と渡り歩いて、なんと1年間で取得した。その後は化学科へ進んだが、戦火が激しくなり自然休講になってしまった。
「誰にも気兼ねなく勉強できることが心底うれしかった。たくさんの人に支えられてそれができたことが本当にありがたかったよ」
向山博士はもちろん、 台湾電力で、給仕から苦労して人事課長までなっていた松下さん。後に同社役員にもなった下村秀一企画部長、そして台北大学の教授たち……。
学ぶ意欲のある若者を理解し、学ばせてくれた人がいたから、「今日の自分がある」と振り返る。
後年、登内さんは県会議員として、県の工業試験場など研究機関の充実のために奔走した。ルビコンでも、技術開発部門を重視し、2002年には創立50周年として技術センターを完成させた。
企業家として、技術開発を先行させることの重要性を熟知していたからであるのはもちろんだが、こうした青春時代の体験から、後進のために学び・研究する条件を整えてあげたいとの思いも強かったのであろう。(続く)