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伊那谷が生んだコンデンサーの世界企業【IV】登内英夫さん

-「人との出会いに恵まれんたんだよ」-

伊那谷が生んだコンデンサーの世界企業【IV】登内英夫さん

 コンデンサーの世界企業=ルビコンの創設者、登内秀雄さんの素顔に迫るシリーズ最終回。青年期から企業経営の道に踏み出す過程、会社創成期の出会いを聞いた。

企業経営の道へ -「向山一人先生との出会い」

伊那谷が生んだコンデンサーの世界企業【IV】登内英夫さん

 口には出せなかったが心の底で「日本は負ける、勝てるわけがない」と思いつづけた太平洋戦争。大戦後期には、孤立した台湾で、空襲と艦砲射撃による巨弾の雨をかいくぐって勉強と研究に励んだ。
 そして終戦。蒋介石政府に1年間徴用され、台湾の戦後復興のために働いた。切れた電球の再生利用。手に入る材料だけでの電子部品の製造……いろいろ課題を与えられた。
伊那に戻ってきたのは1946(昭和21)年、5月だった。
 「戻ってきてからは、向山一人先生との出会いが最大の幸運だった」
 そう語る、故向山一人前KOA社長(創業者、元衆院議員・参院議員)との出会いは、「化学技術者募集」という一片の募集広告がきっかけだった。面接を受けると即刻採用になった(1946年11月)。
 仕事は電解コンデンサーづくり。当時、向山社長が経営する興亜工業社(現KOAの前身)は、抵抗器だけでなく電解コンデンサもつくり始めようとしていた。
 だが、なお紆余曲折がある。興亜工業社入社は、戦前・戦中世話になった向山幹夫工学博士が仕事を始める時には退社することを相互に了解した上でのことで、入社後わずか半年後には、工学博士から起業するとの話が舞い込んだのだ。
 その後約2年間、工学博士のもと、小海時代の上司と協力して、石灰窒素の製造や、諏訪の天然ガスを利用したカーボンブラックの製造、昭和電工塩尻工場が出す炭酸ソーダの廃液を利用した、ソーダ灰(石鹸の代用品になる)の精製などを試みた。だが、どれも大きな成果を生み出せず、1949年には、再び手良の実家に戻ってきたのだった。
 「遊んでいるなら、一緒に新しい仕事をしよう」
 向山社長から再び声がかかった。登内さんの化学の知識を生かして、石鹸・クリーム・ポマードをつくろうという話しになり、ただちに興亜化工という会社を設立、生産に着手した。
 物のない時代。特に石鹸は良く売れ、好調は2縲・年続いた。だが、しだいに大手メーカーの製品が進出して限界になり、いよいよコンデンサーづくりに向かった。1952(昭和27)年4月、独立して日本電解製作所設立となったのである。
 「『伊那谷に太陽を』という向山先生の言葉に胸を打たれた。農村の貧困を救うために、電子工業部品の製造を広げようという考えを、私はそのまま引き継がせていただいた。それに、地域振興のためには経済発展だけでなく政治も大きな要因になるとして、そこで尽力せねばいけないということも学んだ。その後の紆余曲折の中で、向山先生と私のことをいろいろ言う人もいたが、私にとっては、政治と企業経営の師、先生であり、最大の恩人だ」
 こう振り返る。

創成期を彩る邂逅

伊那谷が生んだコンデンサーの世界企業【IV】登内英夫さん

 「ルビコンはね、私だけで育てたんじゃないんだ。もちろん従業員の力もあった。だがそれだけではなく、競合する同業他社の人に支えられてきたんだ。私はそれを密かに誇りに思っているんだよ」
 その第1の例は、現在日本蓄電器工業の社長で、信英蓄電器箔の副社長も務める永田伊佐也さんとの出会いだ。
 1952年日本電解を設立しコンデンサーの製造を開始したものの、技術的にはまだまだ未熟。特に、化学エッチングの方法でどんなに研究しても良い成果を得られないでいた。登内さんはその時、当時のトップメーカーである日本ケミカルコンデンサという会社を訪ね、その技術を教えて欲しいと「とんでもないお願い」を切り出した。
 先方の社長は不在で、当時技師長だった永田さんが、ランニング姿で対応した。
 「同業者で技術を教えてくれるところなんてありませんよ。あんたも良くきたもんだねえ」。あきれながら永田さんは「あんたがあまりに熱心だから、一つだけヒントをあげよう。今は電解エッチングの時代ですよ」と言った。
 「ヒントは?」
 「直流を使います」
「電圧は?」
「数ボルトです」
 これだけの会話が、じつは素晴らしいヒントで、それをもとに模索して、それまでに比べて格段に優れた方法を確立できたのだという。
 これをきっかけに、その後独立した永田さんから、さまざまな技術協力を得ることになった。
 エッチングの方法は確立しても、アルミ箔を酸化皮膜で覆う方法をはじめさまざまな技術的問題はなお残り、依然として大きな壁に突き当たっていた。これを救ったくれたのは当時の日東蓄電器工業の社長だった、故小室源四郎さん(その後電解コンデンサーの大手・エルナーの社長を長く務めた)だった。「そんなに困っているなら、俺のところで技術者を預かってやるから、社員をよこしな」と言って、技術料も取らず、面倒を見てくれたのだという。
 そのほかにも、国内の小さなテレビ組み立て会社が軒並みつぶれ、取引先が減って途方にくれていた時に、思い出の地・台湾への販路を切り開いてくれた誠信商事の故渡辺社長との出会い(この結果、数年間台湾のシェア90%を占めることになった)など、「人との出会いに恵まれた」例は枚挙に暇がない。
 ひたすら研究し・技術を磨こうとする登内さんの姿勢が、同じく技術に生きる人々の共感を引き出したのかもしれない。競合他社に率直に現状を話し、教えを請う謙虚で誠実な姿が、信頼感を生んだのかもしれない。
 とにかく、「こんな例はめったにないと思うよ」という登内さんの言葉どおり、競合他社から技術を学び、ルビコンはその創生期の基盤を作り上げたのだ。
 「人との出会いを大切に」と口にする経営者は多い。だが、これほど「人との出会い」を実際に大切にし、そこで新たなチャンスを切り拓いてきた経営者は数少ないのではないだろうか?

エピローグ 「機械の前で肩書きも何もあるもんかい」

伊那谷が生んだコンデンサーの世界企業【IV】登内英夫さん

 伊那谷の地にコンデンサの世界企業を作り上げた登内さんの歩みを、この紙幅に収めることは到底できない。最後に、これまでの取材の中でのエピソードを2つ紹介してエピローグに代えたい。
 ある日、伊那市の理事者などの工場見学の折、コンデンサの自動巻き取りきの前で、小坂樫男市長に機械の説明をする作業着姿の男性がいた。その気さくな話し振りにつられて「おじさん、この機械はおじさんがつくったのかい?」と声をかけると、「いやぁ、直接つくったのは社員だが、俺もずっと一緒にこれを考えて来たんだ」と、身振り手振りで説明を始めた。
 登内さんだった。
 驚いて「会長でしたか、失礼しました」と恐縮していると、「いいんだ、いいんだ。機械の前では、肩書きも何もあるもんかい」と笑った。
 別の日、若手経営者へのアドバイスを聞きに行った。「経営者は経営に徹し、政治に手を出すべきではない。若手経営者にはこのことを分かってもらいたい」と一言。「県議として活躍された会長が、そうおっしゃるんですか?」と驚いて聞き返すと、「議員は選良で、人に選ばれんだから絶対に手抜きはできない。企業経営よりも政治を優先させなくちゃならなくなる。だが、それでは、企業経営にどこか無理が出るよ」と、しみじみ語った。
 「もうじき90歳だ。100歳まで生きるとしてあと10年。その間に、私の夢だったコンデンサの完全自動生産ラインを完成させたいんだ。政治に首を突っ込んでなければ、もっと早くできたと思うんだよ。一人の人間の力なんて知れているんだからさ…」と笑った。
 老いてなお、意気軒昂。化学知識を生かした技術の開発と、産業振興による地域発展のために、全力で生きてきた人ならではの言葉ではないだろうか。

挿話:父の一言、妻の一言

◆ピンチを救った父の一言・心に染みた妻の一言
 ルビコンの現在を築いた製品はストロボコンデンサー。だが、その開発は失敗の連続で、一時は会社の存続が危ぶまれるほどだった。実家伝来の田畑、家屋屋敷などすべてを担保にして銀行から借金しなければならなくなった。
 その時、「失敗するかもしれないが、どうしたものか」と尊父・巳義さんに相談を持ちかけると、こう答えたという。
「芸者買いをして財産をなくしたというなら俺は恥ずかしい。また、せつない。しかし、事業で失敗して全財産をなくしたということは、ちっとも恥ずかしいことではないよ。男らしくていいじゃないか。最後までやるさ」
 この一言で、勇気百倍。事業を継続する決断を下したという。
 ◇
 奥さんの照子さんは、登内さんの実の従妹。登内さんが願って結ばれた中だが、事業で、さらに市議・県議の仕事で家を空ける登内さんに代わって、故巳義さんと家を守ってきた。家事・農業・接待・その上選挙の手伝いと、人の何倍も働く照子さんには、何度も繰り返し「政治だけはやめてください」と言われたという。
 政治活動で時間が不規則になり、過労気味になることを案じてのことだった。
 だが、いざ選挙になると懸命に応援してくれる姿を見ると、この内助の功があってこそ自分があると思わずにはいられなかったという。今もって頭が上がらない、それほど心に染みた言葉だった!!。
 そんな登内さんに、照子さんはこんな歌を贈った。
はるけくも共に歩みし五十年 夫と時計と会話有り
◆「動く時計」の博物館
 登内さんの趣味は時計の修理。実父の故・巳義さんが昔器用に時計を治していた事を思い出し、20年ほど前から始めた。自宅に専門の工房を作り、時間があればそこにこもるほどの熱中ぶり。コレクションの時計や、自分で修理した時計は、1998年本社ならびに作った登内時計記念博物館に飾る。「うちの時計博物館は、時計が全部動いているのが誇り」と胸を張る。
◆経営の座右の銘
 登内さんが半世紀を超える経営の中で、経営の座右の銘としてきた言葉が2つあるという。
 1つは、故下平肭四元伊那商工会議所会頭の「越えても越えても峠あり」。
 もう1つは故向山一人前KOA社長が良く口にした「道近しと雖も行かざれば至らず、事小なりと雖も為さざれば成らず」。

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