日本舞踊・花柳流師範
花柳太昌(松本八寿子)さん(63)
駒ケ根市上穂栄町
花柳流2代目家元にじかに教えを受けたという父と母は東京・銀座で師範を務めていたが、米軍の空襲が激しさを増してきたため1945年、母の実家のある赤穂町に疎開してきた。程なく戦争は終わったが、両親は東京に帰らずに赤穂に根を下ろすことを決意。この地にまだ芽生えていなかった日本舞踊を普及させようと新たにけいこ場を開いた。
食べていくのがやっとという時代にあって踊りとは優雅な竏窒ニ周囲からは普通と違う家に見られていたが、2人の熱心な活動により、当時見るだけのものだった日本舞踊は徐々に根付き始めた。時代が次第に豊かになるにつれて習ってみようとけいこ場に通う人も増え、女の子のたしなみとしても広がった。
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「芸の道に学問は要らない」竏秩B普段は穏やかだが、芸には厳しかった父の方針で中学卒業後、東京・四谷の花柳昌太朗の元に修行に出された。「何も考えずに素直に従いました。でも実際に行ってみたら、想像していたより何倍もつらい生活でしたね」踊りのけいこなどそっちのけで掃除、洗濯、炊事など先生の身の回りの世話に忙しく働く毎日。踊りは先輩が教えてくれたが、上下関係の厳しさにはなかなかなじめなかった。
「踊りの練習の時、レコードをかけるのが役目でした。2枚目をかける時に音が途切れないようにするのが難しくてね。慣れるまで大変でした」時折師範が踊る時には目を皿のようにして見詰めた。「同じ踊りでも先生の踊りはやっぱり違うんですね。先生は厳しいけれど優しい人で、とてもかわいがってもらいました」
2年半後、修行のかいあって17歳で晴れて名取りとなり、1年間のお礼奉公の後、駒ケ根に帰って来た。両親の手伝いをする傍ら、日々父の手ほどきを受けて芸にさらに磨きをかけた。
「そのころ、後にも先にもたった1度だけ父と舞台で踊ったことがありました。『時雨西行(しぐれさいぎょう)』でしたが、今思えばよくあんな踊りができたなと恥ずかしくなりますね。夢中で終わったけれど本当にいい思い出です」
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花柳は作法に厳しいといわれるが、言葉遣いや目上の人への尊敬の念など、礼儀は世の中すべてに通じるもの。原則として着物で踊るため、着付けも自然と身に付くという。
「魅力は役になり切って踊る時の充実感ですね。舞台での踊りはその時1回限りでやり直しはききません。それだけに踊り終えて幕が下りた時の満足感は何とも言えない。でも何十年踊っていてもいまだに満足のいく踊りはないですね。むしろ、よけいに難しくなってくる。まだまだ未熟、まだまだ修行です」
80歳を過ぎて普段よろよろしている師範が舞台に出るとピシッとし、素晴らしい踊りを見せる姿を目の当たりにしたことがある。「ただ見とれるばかりでした。芸の力はすごい竏窒ニ。昔はピンと来なかった『始めありて終わりなし』という言葉が今は少し分かるような気がします」
(白鳥文男)