「伊那谷の豊かさ」を支える流通の魂 - ニシザワ会長荒木茂さん【II】
- 書物=先哲の教えを胸に -
伊那谷流通業のリーディングカンパニー、ニシザワを育て上げてきた荒木茂さん(現同社会長)。その素顔に迫る特集の2回目。前号(29日掲載)では、「良い物を、より安く竏窒ニいうことに尽きる」と語る経営哲学の底に、地域への貢献の魂が脈打っていることを素描した。
本号では、そうした荒木さんの考えはどのような人生の苦闘の中で発酵してきたのか、そしていかなる深みを持つのか竏窒A青年期のエピソードの中に探ってみた。
【毛賀沢明宏】
自転車で本を運んだ二十歳の頃
「私の原点は、教科書を自転車の荷台に積んで売って歩いた頃にあると思うのですね」
荒木さんが、家業の書店(西澤書店伊那支店)に入ったのは18歳の時。9歳の時に、父昌平氏が急逝。以降、母親のちゃうさんが、茂さん竏衷ニ夫さん竏注Wさんの3人の兄弟を抱えながら、店を守っていた。
書籍や雑誌の販売も手広く行ったが、営業の大きな柱は教科書販売。伊那町(当時)近郊はもちろん、現在の駒ヶ根市中沢や東伊那などの学校に出向き、当時は有料であった教科書を販売した。
「本は先に日通に運んでもらうのだけれど、追加注文とかが出る。それを自転車に分け荷にして付け、さらに荷台に積んで、釣り銭を持ってね。一生懸命ペダルを漕いだなぁ」
中沢の学校で販売する日には、午前5時頃に店を出て、帰りは暗い夜道になった。
売るのは教科書。それで勉強したいという子どもが待っていた。傷をつけないように、数や種類を間違えないように、細心の注意を払った。
「本を手にした子どもたちがうれしそうにページを開くのを見るのが楽しくてね。書店業というのはやりがいのある仕事だなぁとつくづく思いました」
荒木さんは1924(大正13)年生まれ。同じ年、父親の故昌平氏は、勤めていた長野市に本社を置く西澤書店の伊那支店を開設するために、母親のちゃうさんとともに転居した。当時の西澤書店は、全国でも有数の教科書販売会社で、上伊那に供給所を設置する必要が生じ、昌平氏が名乗り出たのだという。
「父は早くに亡くなりましたから、直接深い話を聞いたわけではないですが、書店業への思いは強かったと思います」
昌平氏は長野市の呉服商大和屋の三男で、そのまま家業を手伝うことができたにもかかわらず、「どうしても本が売りたい」と、西澤書店に丁稚同様に入社したのだという。
伊那支店を開いてからも順調に業績は伸びたが、開店後わずか10年で、急逝盲腸の治療ミスなどが原因で亡くなった。39歳の若さだった。
荒木さんは、本を手にして喜ぶ子どもたちの顔を見る度に、父昌平氏の思いをひしひしと感じたという。
荒木さん自身も本好き。仕事の合間を見つけては、店で扱う書籍や雑誌を貪るようにして読んだ。雑誌や実用書からは、当時の社会事情や、商売のノウハウを学んだ。「本から、世の中の動きをつかみ、今後を予測するというクセをあの頃つけた」と振り返る。
その後、経営上の大きな岐路に立つたびに、5年・10年先を見通した判断を下せたのも、「書物を通じて様々な情勢に触れていたからだと思う」と話す。
父親を早くに亡くした影響から宗教・哲学、それに歴史に関心があり、当時一世を風靡していた西田幾多郎や和辻哲郎などの哲学書もよく読んだ。長野県には、信濃教育会など、教員を中心に西田哲学を研究する人が特に多く、そうした人々の影響も受けた。
ともかく、自分が本を商うことで、中央で話題になり議論になっていることを、この伊那谷の地にも伝え広げることができる竏窒サんな流通業の楽しさを肌で感じ、体に刻み込んだ青年期であったのであろう。
だが、一方で戦時色はますます濃くなっていった。
徴兵竏註l生の試練へ
1944(昭和19)年、21歳の時に徴兵検査を受け、現役で満州関東軍四五三部隊に入隊した。
「戦争から終戦、そしてシベリア抑留の時期は、人生の大きな試練でした。思い出す情景はすべて悲惨そのもの。よくもまぁ生き延びたなぁというのが実感なんです」
44年10月5日に広島集合。朝鮮半島に渡る輸送船は、米軍潜水艦の攻撃を避けるため、暴風雨の日を選んで出港した。大きな揺れの中で、「生きて戻れないかもしれない」の思いを強くしたという。
配属された部隊は、最初満州中央部の大都市牡丹江にあったが、45年2月頃、ソ満国境の虎林に移動することになった。私物をまとめて送ったが、急の発熱で入院。そのまま部隊に置いていかれた。移動した部隊は、6ヵ月後、侵入してきたソ連軍により全滅。
荒木さんの部隊も、迫り来るソ連軍を前に陣地構築中、完全に包囲された。「移動せよ」との命令が来たが、まったく動けない……
「自決せよ」。命令は変った。「ここで終わりか」と覚悟を決めた。
だが、偶然、包囲が解かれた。その瞬間をついて脱出。「兵器の残骸の中に日本兵の遺体が放置されている道」を延々と歩き、鏡白江という所で終戦を迎えた。
「行軍の途中で満蒙開拓団の人たちともすれ違った。彼らは本当にボロをまとって右往左往していた。若い女性がわざと男を装っているのを見て、敗けるとはこういうことかと思いました」
終戦の後、ソ連軍から移動命令が出た。一昼夜を徹して行軍し、とある駅から汽車に乗った。
「皆、日本に帰れると思ったんですよ。ところが、翌朝、予想していた方向とは反対側から太陽が昇ったんです」……
2年間、2冬を越えるシベリア抑留生活の始まりだった。
シベリアの凍土から
抑留地は極寒のナホトカ、ハバロフスクだった。来る日も来る日もレンガ積みや森林伐採にかり出された。食事は、生をつなぐための最低限。固いパン2縲・センチだけの日が続いた。衛生状態も悪く、赤痢が蔓延。次々と仲間は死んでいった。
「隊列を組んで歩いていると、途中でバタっと誰かが倒れる。駆けつけるともう死んでいるんです」
宿舎から遠いところでは、そのまま放置。遺体を運べば、また別の死者が増えるだけだった。宿舎で死んだ人は、抑留地の中にある倉庫のような遺体置き場に、丸太のように投げ込まれた。
「寒いからね、誰かが遺体から服を剥ぎ取る。だから遺体はどれも丸裸でしたよ」……
「よく生き残ったなぁ」と振り返る抑留生活は、1947(昭和22)年に終わった。
「生き残った人は、皆、死んで行った人の分まで頑張らないといけないと心に命じたと思う。あんなことを絶対に繰り返してはいけないと思います」
今でも、徴兵されて集合した広島の美しい街並みをよく思い出す。現在の原爆ドームを川向こうに見る宿で、過ごした1週間余。戦時中とはいえ、川べりには勤労奉仕の若い女学生の笑い声が響き、子どもが駆け回っていた。川面がキラキラと光っていた……
それが一発の原爆で灰燼(かいじん)に帰したことを思う時、「あの戦争は何だったのだろうか?」と、いつも考えるという。
「20世紀は科学技術の進歩の時代でしたが、それは同時に戦争で人々が犠牲になった時代。こういう時代に、まっとうに生きるとはどういうことなのか?まだ答えは見つからないのですよ」
2年間の抑留を終えて戻った伊那谷もまだ戦後復興の真只中だった。日本国中で軍需品の横流しやヤミ屋が横行し、それで隆盛を極めていた人もいた。だが、その中で、「一つひとつ目標を定め、まじめに、コツコツとそれを実現していく道」を選んだ。それしか考えられなかった。
「まぁ、その時の思いは、語るべきことではないでしょう」……
荒木さんは、ニシザワの社是に「誠実」を掲げる。この社是と戦争体験とのからみあいについて記されたものはない。
だが、この2文字には、「時代の犠牲」として「死んでいった人々」に対して「生き残った者」が背負う、歴史的使命についての強い自覚が込められているのではなかろうか。(続く)