「伊那谷の豊かさ」を支える流通の魂 - ニシザワ会長荒木茂さん【III】
- 書物=先哲の教えを胸に -
伊那谷の流通業の中核を担うニシザワグループの創設者、荒木茂さんの特集3回目。さまざまな苦難を乗り越えてきた道筋の中に、心の拠り所となった哲学を探った。
大火の中に見たもの
シベリアから戻るとただちに書店業に専念した。年少の兄弟が母を助けて、書店は業をつないでいた。
紙不足の折から、新刊書を扱うだけでなく、新刊書と古書を交換し、それで得た古書も販売するという、弟たちが編み出したユニークな方式も好評で、荒木さんが復員して順調に書店業は発展した。
だが、それから2年後の49年、伊那市通り町は大火に見舞われ、西澤書店は店舗を焼失した。年末12月29日のことだった。
「ちょうど雪が積っていてね、火が上にあがらずに、横に広がった。消化用水が凍りついていて、手もつけられないまま燃えてしまったんです」
折りしも、戦時統制が解かれ、東販・日販・日教販らの新生民間取次会社が、販路拡大のため委託販売の書物を大量に送りつけていた時だった。「年間売上の3倍位の買掛金ができてしまった」。
悲嘆のどん底に沈んだ。だが、そこからが違った。29日の夜には弟の照夫さんを東京に派遣し、新年初売り用の書物を取り寄せる手配をした。取次会社は30日が仕事納めで、その日のうちに商品の手配をしなければならなかった。
一方、伊那では焼失した店舗に代わって急きょバラックを建てた。こうして、火事から4日後の正月2日には、焼け落ちた通り町で本の正月初売りをやってのけたのだった。
「焼け残った店は賑わったけど、焼けたところはまだこげた臭いがしていた。それでもバラックの店に黒山のお客さんが来てくれて、頑張れよと声までかけてもらって、本当にお客さんのありがたさが身に染みました」
そして、この、悲嘆と歓喜が混沌として混ざり合った状況の中で、なんと、伊那谷にはまだなかった百貨店の開店という大きな目標まで掲げたのだった。
借金の返済だけで10年以上がかかると予想された。利益率が20%程度の書籍販売だけでクリアするには、途方もない数字。そこで、再建を同時に新たな発展とすることを心に決めて、多角化の第一歩を踏み出したのだ。
手はじめは衣料品や服飾関係の小間物、化粧品、人形の材料などの扱いだった。奥さんの清子さんの実家は、飯島町で呉服や化粧品を扱う大正館。清子さんのアイデアや、実家を通じての仕入れルートなどを生かした。書物と同時に衣料品なども扱えるように店舗整備計画も立てた。
個人経営をやめ、有限会社として法人化する準備を進めた。
こうして着々と再建=発展の道を歩み始めた同社は、通り町での店舗増改築を進め、66(昭和41)年には、これまた清子さんの発案から、生鮮食品を扱うスーパーマーケットを開店して多角化をさらに広げ、翌67年には念願の百貨店の認可を受けるに至るのである。
振り返れば、大火による店舗焼失は、同社の発展の大きなターニングポイントになったのだった。
だが、それはなぜ可能だったのか?大火の中で荒木さんが見たものは何だったのか?
「心の中にあったのはお客さんに本を届けなくちゃという気持ち。それに、こんなことでくじけてたまるか、という負けん気だけでしたよ」
荒木さんは、こう言って笑う。
「人生とは・ス今・スの連続」
逆境に置かれた時、人は、それを乗り越えて行く強固な意志をどのようにして自分の内部に発酵させるのか?
経営においてであれ、人間関係においてであれ、そしてまた様々な社会的実践においてであれ、苦難や困難に直面した時に、人は常に精神の強さの根源を求める。
伊那谷の流通業の中核的位置を担い続けた荒木さんの軌跡を、この紙幅に書き取ることは到底できない。だが、紹介したいくつかの出来事を見ただけでも、経営者として、難局を克服しようとする燃えるような意志の強さを感じるのは筆者一人ではなかろう。
若い頃から、自ら商う書物から、流通業の現状や将来像をつかみ、時代の趨勢を読む力を養ってきたことが、大きな支えになっているであろう。
そしてまた、戦争中からシベリア抑留の体験を通じて、・ス人が人であって人でない・ス、どん底の時代状況を見てきたことにも決定されているだろう。「あの時のことを思えば、どんな苦労だって耐えられると思います」という荒木さんの言葉からも、それはうかがえる。
だが、流通業で代を築いた荒木さんの話の節々から感じられるものは、それらの事柄に止まらない、「哲学すること」の力だ。
尊父の急逝・戦争と抑留・大火・強力なライバル店の出現・急速な車社会の到来……こうした度重なる状況の転変の中で、どうしてこれほど強靭に自らの道を歩み続けることができたのか?
この質問に対して荒木さんは「そんなタイしたものはないです。ただその時、その時を一生懸命生きただけです」と笑いながら話し、「人生は・ス今・スの連続ですからね」と、何気なく、まさに淡々と語った。
「人生(歴史)とは・ス今・スの連続」という言葉は、哲学者・西田幾多郎の教示による。直面している現実を不断に超え出ようとする意志の力を、「無」から「有」を生む禅の教えの考察を通じて、「絶対無の思想」として基礎付けた西田哲学。それに深く接していなれば出ない言葉だ。
こういうやりとりもあった。
ともに歩んできた通り町商店街の人々から反対されながらも、ベルシャイン開店を決断した。この決断を為さしめたものを質問したところ、「それはまさに歴史的現実に即したということです」と答えた。
この「歴史的現実」という哲学的カテゴリーもまた、西田の門下生でありながら、西田哲学を批判的に乗り越えようとした田辺元の説いたものだ。
自らもその中に含まれている現在の現実は、それが生起するまでの歴史をそこに凝縮したものであり、そこから未来もまた切り拓かれる。この現実の底に脈打つ時代の鼓動に同化することで、現実を超える力が沸き出てくる。
こうした教示に寄せて、自らの経営上の一大決断を「歴史的現実に即した」と言い表しているのである。
荒木さんは自ら「西田哲学ファン」と称しながら、「専門的に勉強したわけでなく、店にある本を読み漁っているうちに少しづつかじっただけです」と笑う。
だが、たとえ専門的に研究したのではなくとも、書物を通じて感動し示唆を受けた哲学を、自らの生き方を決める時に生かし、自らを「哲学」してきたことは、話しの節々から滲み出てくる。そして、それが、荒木さん自身の、「・ス今・スを越え出ていこう」という強い意志の源になっているのではなかろうか。
2003年、荒木さんから社長職を引き継いだ荒木康雄さんは、ニシザワ創立80周年に際して、「ニシザワの原点は書店にある」と語った。記念事業の一環として小中学生を対象にした読書感想文コンクールを開始した時だ。
まさに「ニシザワの原点は書店にある」のであろう。
変化の激しい流通業界で、時代の趨勢を見極めながら、現代的な経営手法を次々と導入して安定成長を遂げた同社。その発展の道は、本を積んで伊那谷を駆け回る毎日の中で、書架にならぶ哲学書・思想書に手を伸ばし、学んだ、荒木さんの若い頃に用意されていたのかもしれない。
(本文終わり)
■振り返って竏秩u二人の女性に支えられた」
荒木さんは経営者としての歩みを振り返り、「二人の女性に支えられた」と話す。
一人は実母のちゃうさん(享年百歳)。父昌平氏が39歳の若さで急逝して以降、夜、コタツの上に帳面を広げたまま、朝までそのままうたた寝していた姿を、度々見かけたという。
ちゃうさんは稲荷山町(現在の千曲市)の衣料雑貨店に生まれ、恵まれた家庭に育った。昌平氏と結婚し荒木さんが生まれると同時に、伊那に転居。書店開店10年、33歳の若さで夫を失った。営業の継承では様々問題もあったが、「子どもが継ぐまでやる」との強い意志で、教科書供給・書店経営を女手一つで8人の従業員を統率して、やり通した。
「3人の子どもの母であり、父代りであり、その上書店の経営者でもあった。母の頑張りがあったから、現在の事業があると思うと感謝の言葉もない」と話す。
もう一人は奥さんの清子さん。25歳と21歳で結婚し、翌年長女が生まれたが、その年の暮れ大火で店舗を焼失した。
厳しい再建=発展の途上で、衣料や化粧品担当として、時に東京の服飾問屋街にまで仕入れに出かけ、多角化の礎を築いた。「ファッションショーを開いたり、花の展示会を開いたり、百貨店という夢を実現するために、自分にはない女性らしいアイデアを教えてくれた」。
清子さんもまた、旧制伊那高等女子師範(現伊那弥生ケ丘高校)時代、学徒動員先の名古屋の軍需工場で爆撃を受け、同級生を失った経験を持つ。
母ちゃうさんの晩年期には約7年にわたり介護にもあたった。
「子どもを育て、私の仕事を助けてくれ、さらには母の面倒を最後まで見てくれた。これはもう、頭が絶対に上がらない」と笑う。
■社是竏秩u誠実」、
そして「人が好きであること」
ニシザワは社是に「誠実」を掲げる。荒木さんはこの意味を「私たちに関わる全ての人・物・事に対して誠実な心をもって行動すること」だと説明する。客、取引先、上司・部下・同僚、そして自分自身に対しても常に誠実に行動していれば、おのずと道は拓け、新しい出会いが訪れる。「実績」や「信頼」は「誠実」の積み重ねによって生じるのだ竏窒ニ。
こうした言葉にも、・ス今・スを一生懸命生きることの連続が人生なのだという荒木さんの考えがうかがわれる。
特に新入社員や就職希望者に対しては「人が好きであること」を求めている。現状に甘んじることなく自分なりのビジョンを持って自ら成長していく姿勢を重視し、そのためには、なにより、人が好きであることが大切だというのである。新鮮な発想やアイデアも、人との出会いを大切にする中から生まれる。客に奉仕することに誇りと喜びを感じられる人ならば、仕事の中の創意工夫はおのずと生まれてくる。
「仕事は、それが同時に生きがいでなければ本物ではない」という荒木さんならではの考えだろう。