登戸研究所に関する新たな文書見つかる
取材:エコーシティー・駒ヶ岳
太平洋戦争末期、旧陸軍の秘密作戦を研究する登戸研究所が疎開していた駒ヶ根市で、爆弾を作っていたとみられる工場の資材や機材を記した文書が見つかりました。
1日は登戸研究所調査研究会が駒ヶ根市立博物館で会見を開き、工場の実態解明につながる貴重な資料だと評価しました。
登戸研究所は、ゲリラ戦やスパイ活動などで必要な兵器や資材を
研究開発していた旧日本陸軍の機関で、太平洋戦争末期に、一部が上伊那に疎開していました。
市立博物館の収蔵庫で見つかったのは、終戦の翌年の1946年、GHQの指示で登戸研究所の工場に残されたものを搬出するため、赤穂町役場が作った2つの文書です。
赤穂国民学校の校舎を利用した赤穂分工場を調べたもので、見取り図とともに、敷地内に残っていた機材や資材が120ページあまりにわたりまとめられています。
上伊那のほかの工場では、缶詰型の爆弾が作られていたという証言が残っていますが、赤穂分工場については実態が謎に包まれていました。
文書には、8500個のブリキ製の缶や5.5トンにも及ぶ原料の板のほか、金属の板を丸めたり折ったりする装置の記録も残っていて、缶詰型爆弾の製造が大規模に行われたことが推定されるということです。
見つかった文書は、今月12日に開館する登戸研究所平和資料館で公開されます。