カメラリポート 天竜川の通船

明治時代の盃です。
天竜川通船業 迅速勉強
開始披露 と記されています。
天竜川通船を明治時代末期まで行った伊那市坂下の中村奥治郎が、開業を祝い配ったものです。
伊那市坂下の飯田線踏切近くにある中村さん宅。
中村奥治郎の子孫にあたり、今でも大切に当時から伝わる資料を保管しています。
水量が豊富な天竜川では、江戸から明治にかけて、交通・輸送の重要な手段として、舟で人や物を運ぶ通船が行われていました。
天竜川は、岡谷市の釜口水門から伊那谷、愛知県をかすめ、静岡県の遠州灘に注ぐ延長213キロ、日本全国9位の長さです。
下る舟は、川の流れにまかせ、上流に上げるには、帆を張り、人力も使いました。
帆を張って上げるのは、春先から夏ごろまでが多く、下流から吹き上げる風が最もよかったようです。
伊那谷からの下り荷は、米、大豆、漆、柿、酒など、遠州からの上り荷は、砂糖、塩、綿、煮干し、海老、みかんなどでした。
辰野町平出から飯田市時又までの天竜川。
午前7時15分辰野朝日橋を出た舟は、8時35分伊那町大橋着。
時又を目指して南に下っていきます。
午前7時15に辰野を出発した舟が飯田市時又に着くのは、午後3時。およそ8時間の船旅でした。
大洪水があった1904年、明治37年以降孤軍奮闘した中村奥治郎でしたが、1906年、明治39年5月末に通船は途絶えます。
天竜川上流に白帆の影は消え、今では、観光舟による川下りが残るのみとなっています。
天竜川通船の歴史は、江戸時代以来、挑戦、開業、休業、廃業の繰り返しでした。
陸上交通がない時代、遠州まで下る天竜川の存在は、大きな魅力だったにちがいありません。