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収容所で生き延びる

駒ケ根市赤穂北割二区
木下主計さん(79)

収容所で生き延びる

 「ここはどこだ?」眠りからさめ、ぼんやりした目で見回すと周りは死体だらけだった。「…ここは収容所の死体置き場らしい。そうだ、発疹チフスにかかり、高熱が出て意識不明になった。そして回復の見込みなし窶狽ニして捨てられたのだ」零下30度の吹きさらしの中で少しずつ意識がはっきりしてきた。
 ◇ ◇
 1945(昭和20)年に応召し、精鋭の関東軍特殊部隊に入隊。大陸で鉄橋や線路を爆破するなどの任務に当たっていた。
 「ソ連・満州の国境付近に駐留していた8月9日の未明、突如として歩哨の『ソ連軍侵入!』の悲鳴が響いた。中立条約を一方的に破ったソ連の侵攻が始まったのだ。警戒はしていたものの、不意を突かれて味方部隊は大混乱に陥ったが何とかその地に踏みとどまり、終戦を知る8月28日まで必死でソ連軍と戦い抜いた」
 戦争は終わったが、捕虜となった後は酷寒の収容所で飢えと病との戦いが始まった。
 ◇ ◇
 敗戦翌年の1月、死体置き場から生き返って兵舎に戻ったものの、下着や靴下、手ぬぐいなどの持ち物はすべて「形見」としてほかの兵のものになっていた。「収容所では栄養不足を補うためそれぞれの兵が現地人との物々交換で食料を得て何とか生きていた。病気の癒えない身でその手だてを失っては生き延びるのはほとんど絶望だった」体重は応召時の65キロから30キロにまで落ちていた。
 栄養失調で衰弱は進み、今度こそ本当に死体置き場行きか窶狽ニ思い始めたある日、曹長から呼び出しを受けた。何事かと思い、直立不動で言葉を待っていると「貴様は上伊那出身か」と聞かれ「そうであります」と答えると「そうか。おれもだ」と笑顔が返ってきた。「よし、これを食っていけ」と出された食事は初年兵の身分には考えられない、バターをかけた米の飯、野菜や魚の缶詰など窶煤Bしかも「これからは毎晩来い」との信じられない言葉。「こんないいものが収容所にあったのかと思うほどだった。お代わりまでさせてもらって…。その後収容所が閉鎖になるまでの2カ月というもの、この食事のおかげで体力を取り戻すことができた。まさに地獄に仏でした」
 ◇ ◇
 収容所を出て10月に佐世保にたどり着くまでになめた苦しみは「筆舌に尽くしがたく、生きるためだったとはいえ、とても人に言えることではない。このまま墓の中まで持って行くより仕方がない…」。
 あれから60年。また8月がやってきた窶煤B
 (白鳥文男)

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