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伊那ケーブルテレビジョン㈱新しい社長に向山賢悟さん就任
伊那市西町の伊那ケーブルテレビジョン株式会社の第31期株主総会と取締役会が19日伊那市内で開かれ、向山賢悟常務取締役が代表取締役社長に就任しました。 新しく社長に就任した向山賢悟さんは、伊那市西町の41歳です。 明海大学を卒業後1999年にNECネッツエスアイに入社し、2007年に伊那ケーブルテレビジョンに入社しました。 取締役総務部長と常務取締役を歴任したほか、伊那青年会議所理事長や日本青年会議所長野ブロック協議会会長を務めています。 向山さんは「戸惑いや不安をいち早く自信に変えて地域の目線、加入者の目線に立って全力投球で取り組んでいきたい」と挨拶しました。 社長を退任し取締役会長に就任した向山公人さんは「各市町村や関係者の支援を頂き地域密着型の事業を展開してこれたと思う。さらに技術の革新と幅広い展開が予想される業界であり、今後とも皆様の支援をお願いします」と挨拶をしました。
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東日本大震災から4年 3.11の今⑩ 循環の輪復活を
南箕輪村南原の原富男さん。 3月5日、福島県郡山市にある社会福祉法人にんじん舎をめざします。 にんじん舎では、障害者の共同作業所として、会津地鶏を育て、卵をとり、糞は醗酵させ肥料にする循環のサイクルができあがっていました。 しかし、震災による福島第一原発事故により、その鶏糞から放射能が検出されたため、鶏糞は行き場所を失ってしまったのです。 そこで白羽の矢がたったのはチェルノブイリ原発事故で汚染された土壌を浄化するバイオガスの技術でした。 原さんは、去年にんじん舎の鶏舎脇にバイオガスプラントを建設しました。 さらに今回は、そのガスを使って発電させようというのです。 プラントにガス発電を組み込むのは原さんにとってはじめてのチャレンジ。不安もあります。 翌日6日、施設利用者にあたたかく迎えられた原さん。さっそく鶏舎脇のプラントへ向かいます。 ガスのホースを発電機に入れて回します。 ガソリンを切り、ガスに切り替えます。 うまくいきません。 送りこむガスの量を変えながら試行錯誤を繰り返します。 音が変わってきました。 10分以上たっても止まりません。 ライトもついています。 成功です。 バイオガスだけで発電機は動き続けています。 放射能が含まれた鶏糞をプラントに入れることで、ガスと電気を生み、放射能が取り除かれた液肥は、再び畑に帰っていくという循環のサイクルが復活したのです。 伊那のバイオガスとウクライナの技術が今フクシマで稼働し始めています。 放射能に負けずに戦う人たちがフクシマにはいます。
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東日本大震災から4年 3.11の今⑨ 宮城県石巻市の今
2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0、震度6強の大地震が宮城県石巻市を襲いました。 2015年1月末現在、死者は、3,176人、行方不明者は425人となっています。 石巻市の復興政策部復興政策課の岡道夫課長に話を聞きました。 「大津波警報が発令された直後、標高50mの日和山に避難をした。徒歩で避難する人や、車で避難する人でいたるところで渋滞が発生していた。」 一番多くの犠牲者を出したのが、石巻市南浜町と門脇町です。 二つの地区を見渡せる日和山公園(ひよりやまこうえん)、鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)には、毎日犠牲者に手を合わせる人の姿があります。 [震災体験者の話](地元の人) 「津波が陸橋の高さまで来て、陸橋のテッペンに車が2~3台引っかかってそこで一晩過ごした。すその方にいた車は全て流された。取り残された人たちは翌日自衛隊のヘリが来て救出された。」 [岡道夫課長] 「住まいの供給は今年度から平成27年度にかけて一気に加速していける。平成27年8月には市場が完全復旧し再開できる。漁港の水揚げについても、震災前の90%まで回復してきた。」 震災から4年、石巻市は復興に向け、明るい光が見えてきた反面、仮設住宅にはまだ、20,000人を超える人たちが生活しています。 [岡道夫課長] 「「復興頑張って」とメッセージをいただいている。それを励みにこれからもがんばる。」
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東日本大震災から4年 3.11の今➆
伊那市西箕輪の海老原よしえさん。 海老原さんは、全国各地でコンサートを開くシンガーソングライターです。 これまでに6枚のアルバムをリリースしていて、売り上げの一部を被災地支援にあてています。 「ギターを抱えて歌とともに被災地の人たちと出会っていきたい」 海老原さんは、平成14年に東京から伊那に引っ越してきました。 2人の息子は成人していて、現在は1人暮らしです。 専業主婦だった海老原さんは、12年前の平成15年40歳でアーティストとしての活動を始めました。 音楽活動の経験がなかった海老原さん。伊那に引っ越してきた年の冬に突然頭に曲が湧き上がってくるようになりました。 東日本大震災発生の1か月ほど前。 震災を予言するかのような情景と歌詞が頭に浮かびます。 別れについて歌ったこの曲は、「津波で引き裂かれた夫婦の思い」と「残された日々をどう生きるか」を訴えかけています。 「もうもどらないんだ あの愛おしい日々 あのつないだ手 すべて消え行くんだ 思い出は時に悲しみを生んで 今からできる事ってなんだろう?って考えてみる 愛したいんだ 何もかも投げ出して 愛したいんだ 残された日々を今 ここにそっと置くよ ありがとうって書いて 公園の小石に いつか誰かが手にとって」 「当たり前の日常生活がもう戻らない、繋いだ手はもう戻らないといきなり始まった。当たり前に過ごすことがそんなに幸せなことかということを歌がきて教えてくれた。自分が今日という日をどういきたいか、私に聞いてきた問いただしてきた気がする。私にできることがあったらそれをやっていきたいと思った」 歌を通して沢山の人と出会い、つながっていく。海老原さんはそんな生き方を大切にしています。 「つながることをきっかけに学べることやれることは沢山ある。それを模索したいしつながっていたい。同じ時代を過ごしたい。逆の立場だったら忘れられること、厳しい状況にあっても周りが変化して自分たちだけ取り残される気持ちになると想像したとき、私自身のためにも忘れないためにも支援という形で自分をつなぎとめておきたい。沢山の人と一緒に生きている。そのことが実感できるように東北にも行きたいし伊那にも来てもらいたい。ギターを抱えて歌とともにそういう人たちと出会っていきたい」
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東日本大震災から4年 3.11の今⑧ 高校生が見つめる被災地
「実際東北に行ってみてみると、まだ全然復興してなかったりして、苦しく生活している人がいっぱいいて、自分たちが忘れていっちゃいけないなって思いました」 伊那市の伊那西高校。 伊那西高校は、学校創立30周年を記念して去年8月に被災地の視察研修を行い、有志26人が岩手県大槌町(おおつちちょう)などを訪れました。 大槌町は津波や火事による被害が大きく、震災で人口のおよそ1割にあたる1,284人が亡くなりました。 視察研修を中心となって進めてきた前生徒会長の林瑠衣さんです。 林さんは、「老人ホームがここにあったんだよっていう場所は、まったく何もない状態で、ただの土地だけになっていたのが一番印象に残っています」と話していました。 視察で訪れた「子ども夢ハウスおおつち」。 震災で家族を失った子供たちが集まる場所です。 伊那西高校では、子ども夢ハウスの運営を支援しようと、全校でチャリティー人形を制作しました。 7月の文化祭と2月の芸術フェスティバルで、募金を行い、チャリティー人形は300円以上募金した人に贈られました。 集まった金額は合わせて8万8,327円に上ります。 去年11月には報告会が開かれ、全校生徒に被災地の様子を伝えました。 伊那西高校の生徒が見つめた被災地。 思いは、次の学年へと引き継がれます。
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東日本大震災から4年 3.11の今⑥ 子どもたちに故郷を
伊那市高遠町。 引っ越しの荷物をのせたトラックがやってきました。 この春、福島県双葉町から伊那市高遠町に移住を決めた廣田真也さん、愛理さん夫妻です。 夫の真也さんは伊那への移住について「故郷に帰ってきたと感じられる場所をつくりたい」と話します。 廣田さん一家は両親とともに福島県双葉町で暮らし、下水処理の会社を経営していました。 震災による原発事故。福島第一原子力発電所から5キロの場所にあった自宅は今も帰宅困難地域に指定されています。 原発事故により両親とは別々に避難生活をおくっています。 廣田さんの両親は埼玉県へ、廣田さんは妻と子供達と共に愛知県に避難しました。 真也さんは震災の日を振り返り、午後8時 双葉町の防災無線で原発から3キロ圏内の人達に避難を呼びかける放送が流れた時、「もうダメかなと思った」と話します。理由を尋ねると長年双葉で暮らしたが、(原発事故で)避難を呼びかける放送が流れたのがこの時が初めてだったからです。 廣田さんが震災直後の2011年3月から4年間生活をしたのは、妻の愛理さんの両親が住む愛知県蒲郡市です。 渥美半島と知多半島に囲まれた蒲郡は一年を通して温暖で、冬でも雪が積もる事はありません。 廣田さん夫婦は、中学3年生の長男を筆頭に4人の子供に恵まれました。 蒲郡での生活も落ち着き始めました。しかし、子供達の将来を考え自然豊かな伊那への移住を決めました。 真也さんは「当たり前にあった双葉の実家が原発事故で帰れなくなり、子供たちの帰ってこれる場所を作りたかった。そのためには田舎で故郷に帰ってきたと実感でき、帰ってきたい場所であることが大切」と話します。 妻の愛理さんは「双葉の自然の中で生活していたから、同じような自然の中でまた生活したかった。もしかしたら、子ども達より私たち夫婦の方が自然の中での生活を求めていたのかもしれない」と話します 高遠町の新居には、去年12月に一時帰宅した福島の実家から持ち出したひな人形が飾られていました。 真也さんは伊那で自宅を購入し移住を決断し「震災以降、同じところをぐるぐる回っていたが、ちょっと時間が動き出したような感じ。隣近所など人とのつながりを作るのが楽しみ」と笑顔で話していました。 震災から4年。廣田さん一家は高遠での新たな生活でこれまでの時間を取り戻します
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東日本大震災から4年 3.11の今⑤ ある農業青年の葛藤
福島県伊達市出身の農家、橘内孝太さん。33歳。現在知人の家で仮住まいをしています。 福島第一原発事故のあと悩んだ末に高遠で農家として生きる道を選びました。 地元農家から耕作放棄地を借りることが決まり春になればここで野菜づくりを始めます。 孝太さんは福島の農家の家に生まれました。 学校卒業後は「安心して食べてもらえる野菜を作りたい」との思いから実家で無農薬栽培を始めました。 経営的にも軌道にのってきた2011年。福島第一原発事故が起きました。 原発から自宅まではおよそ50キロ。 孝太さんは放射性物質の影響を考え7年間続けてきた福島での野菜づくりを断念しました。 孝太さんは「現状農業は難しい。人間の力ではどうにもならない。」と話します。 農家の知人がいる高遠町で農業を手伝い3年が経過した去年。 この場所で農家として生きていく決断をしました。 孝太さんが生まれ育った福島県伊達市梁川町。 原発事故は福島の農家に大きな損害を与えました。 孝太さんの父、孝一さんの農地のすぐ近くにも放射線の除染作業で出た土が仮置きされています。 孝一さんは「福島という場所を考えたときもうすでに普通じゃない。福島がもう本来の前の福島じゃないし戻ることもない。」と話します。 原発事故は橘内さん家族の生活を大きく狂わせました。 孝太さんは「福島を忘れたわけではないけどそのまま置き去りにしてきて、だんだん福島の感覚がうすくなっている。」と言います。 あれから4年。 孝太さんは高遠で農業をしていくことに葛藤を抱えながらも少しずつ前に進もうとしています。
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東日本大震災から4年 3.11の今④ 被災地の犬・猫は今
福島県南相馬市で行場を失い保護された猫マーマ 飼育放棄された犬や猫の飼い主探しなど上伊那を中心に救済活動をしているハッピーテールが預かっています。 震災後多くの人々が避難所生活を強いられました。ペットたちも同じです。 当時の報道は人の命、人の生活が優先でした。 その時映像で犬や猫が放浪している姿を見たハッピーテールの福元麻子さん。 「何か自分にできないか」と思い被災地の福島県へ車を走らせました。 福元さんはその後も、被災地へ足を運び犬猫みなしご救援隊が保護した犬13匹、猫3匹を引き取りました。 その後、里親を募集しすべての犬と猫が県内の一般家庭に引きとられました。 震災直後の動物達の様子などを映した一冊の本「鼓動」があります。 この表紙の写真に写っている犬は現在諏訪市にいます。 飼い主の林朱美さんです。 名前はラッキー。福島県で迷っていた所を保護されました。 林さんは「我が家の番犬としてこれからも一緒に生活していきたい」と話していました。 箕輪町北小河内の竹内和之さん宅では、被災地の犬が生んだ子犬を3年前から飼っています。 名前はジュリです。 竹内さんは「せっかくここに来たからずっと可愛がってやりたい」と話していました。 東日本大震災から4年。 家族の元に帰れなかった犬や猫たちは今、新しい家族のもとで新しい生活を送っています。 福元さんは「最後まで大切に育ててほしい」と話していました。
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東日本大震災から4年 3.11の今③ 海苔網がつなぐ絆
2014年12月、いなっせ北側広場。 伊那商工会議所青年部企画のイルミネーションが行われました。 ここで使われたのは、海苔の漁で使う網です。 宮城県の漁師からもらったものです。 宮城県東松島市の海側に位置する、大曲浜地区。 海苔の養殖生産が盛んな地域です。 イルミネーションの網は震災前、ここで使われていました。 伊那商工会議所青年部の高見洋平さん。 今でも大切に網を保管しています。 高見さんは、去年11月、大曲浜を訪れ、漁師と一緒に海苔の漁も体験しました。 復興にむけて頑張っている漁師たちの事を伊那の人にも知ってもらい、東北に目を向けてもらおうと、網を使ったイルミネーションを企画しました。 震災直後、壊滅的な被害を受けた大曲浜。 震災後、漁師たちは、海苔の養殖が盛んな大曲浜を復活させようと奮闘しました。その時にみつけたのが、あの網でした。 大曲浜の海苔漁師、津田大さんは「道具をかき集める事しかできなかった。網一つでも貴重なものだった」と話します。 伊那商工会議所青年部の高見洋平さんは、そんな漁師たちの姿を見てファンなったと話します。「東北に関心を持つ、その事もこれからの復興支援の一つの形なのかな」- 漁師の津田さんは「今は復興の様子を見せたい。元に戻るだけじゃなく、進化した東北を見せる事が皆さんへの恩返し」と話していました。 午前5時半。今日も漁師たちが海へと向かっていきました。 伊那商工会議所青年部では、今月下旬にも義援金を東北に届けに行く予定です。
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東日本大震災から4年 3.11の今② 地域と被災地を本で結ぶ
「地域の情報の発信源として、図書館としては引き続きこういう活動をしているということを皆さんにお伝えしていきたいと思っています」 伊那市荒井の伊那図書館。 年間およそ10万人が訪れるこの図書館は、子どもからお年寄りまで多くの人が利用する、地域になくてはならない存在となっています。 2階の一角には、4年前に発生した東日本大震災後、すぐに設置されたコーナーがあります。 「東日本大震災情報交流ひろば」 震災に関する本や新聞を置き、情報を発信しています。 このコーナーを担当して4年目になる、職員の保科麻衣さん。 震災から3日経った2011年3月14日にこのコーナーを設置しました。 このコーナーには、古本の回収箱が設置されています。 「陸前高田市図書館ゆめプロジェクト」の古本回収ボックス。 津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市。 大津波が町を襲い、多くの公共施設と同様に図書館も大きな被害を受けました。 建物は全壊。職員7人全員が犠牲となり、置いてあった8万冊の本は全て流されてしまいました。 伊那図書館でゆめプロジェクトを担当している小牧のぞみさん。 ボックスに入っている本を見る度に支援の輪が続いていると感じるそうです。 震災後、上伊那にも多くの人が移住してきました。 離れて暮らしていても故郷のことに目を向けてほしい。地域の人にはあの日の出来事を忘れないでいてほしい。 伊那図書館では、地域と被災地を結ぶ取り組みをこれからも続けていきます。
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東日本大震災から4年 3.11の今① 4年目の苦悩と挑戦
「ブレちゃうのよね。ここにいたら福島の話題ゼロ。忘れていってしまう。でも忘れてはいけない。」 東日本大震災による福島から自主避難した果樹農家佐藤浩信さん。この時期は、リンゴの剪定作業に励んでいます。 佐藤さんは特色ある果樹栽培とビジネス戦略で福島を代表する農家として知られていました。佐藤さんが作る商品は、高級果物ギフトを扱う百貨店や老舗の果物店などで販売されてきました。 しかし、東日本大震災が発生。 福島第一原発事故により自主避難した佐藤さんは、被災直後の4月に西箕輪に再起をかけ移り住んできました。 佐藤さんは、移住してすぐに、桃とさくらんぼを西箕輪の畑に植えました。 去年の夏、4年目を迎え、4メートルほどに成長した桃が、初めての荷を迎えました。「まだ、納得の味じゃない…」 今回は、地元の直売所に出荷しました。 佐藤さんは、現状を打破する突破口を模索して、動き続けています。 月に2~3回は、福島に戻り、日曜日は、東京で商談会。2月は福島の農業者の代表として香港に。ニュージーランドの農業研修にも1週間、参加しました。 香港では、小売店でどのように日本の商品が扱われているか、その現状を確認しました。「福島がダメだってことはわかってはいたけど。福島の商品ぜんぜん売れない。どうしたらいいかわかんない。本当に全然わかんない」 福島の商品が売れない。この現実は佐藤さんに重くのしかかります。 佐藤さんの果物栽培。それは戦いだといいます。 福島県民が長野の地で、挑み続けて作り出す味を、ふるさと福島の再起のために役立てたい。 佐藤さんはその一貫した思いを、責務として自分に課して、戦い続けます。