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マルコミ・コットンクラブ(竹中理恵子さん講師代表)
駒ケ根市すずらん通りのコットンショップ・マルコミ(小林好恵店主)が主宰するパッチワーク教室「マルコミ・コットンクラブ」は9月27、28日、駒ケ根市文化センター小ホールでクラブ結成25周年記念「パッチワークキルト展-リバティーに恋をして-」を開く。講師代表の竹中理恵子さん(宮田村)、講師の林和子さん(飯島町)、唐沢芳子さん(駒ケ根市)、宮沢公子さん(駒ケ根市)の4人にグループ顧問の下島みねさん(駒ケ根市)も加わり、5年振りの記念展に向けて、内容を検討している。
同グループは25年前、パッチワーク界をリードする東京の古矢美智子さんから直接指導を受けた竹中さんを講師に、本町にあったマルコミの旧店舗でスタート。竹中さんは古矢さんから繊細できれい、正確なパッチワークの技術を習得し、講師の資格を得て、月1回3教室で指導。店舗を現在地に移転してから、生徒数が増えたため、熱心でセンスのよい生徒の中から、古矢さんの推薦で新たに3人の講師が誕生。竹中さんを加え4人が交替で月1回、12教室を受持ち、生徒数は68人の大所帯に膨れ上がった。60代を中心に30代から80代と年齢幅は広い。
「リバティーに恋して」をテーマに開く同展では、全員がリバティープリントタナローンをふんだんに使用したビクトリア、アールヌーボー、オリエンタル風の作品を製作。120センチ四方の大作が68枚ずらりと並ぶとあって、見ごたえ十分。
「リバティー」とは針仕事をする女性なら1度は憧れる、イギリスの最も華やかで豊かなビクトリア時代に生れ、布に対するこだわりが百年以上経た今もますます、世界中の人々を魅了している。
ほかに、50センチ四方の作品48枚をつないだハワイアン調のキルト「フレンドシップ」も展示する。
パッチワーク歴30年の竹中さんは「単純な図形から複雑な造形美まで、奥が深い」。宮沢さんは「色々な布を使い、さまざまな作品ができる。色の組み合せにより、同じ布を使っても全く別な作品ができる」と、パッチワークの魅力を。
唐沢さんは「手を掛ければ掛けただけ、すばらしい作品ができる」。林さんは「物作りが好き、針と糸さえあれば、どこでもできる」。最年長の下島さんは「パッチワークは元気のもと、長生きの秘訣」とそれぞれ、パッチワークの楽しさを話した(大口国江)
かこみで
パッチワーク・キルト展
日時・27日午前10時縲恁゚後8時、28日午前9時縲恁゚後6時。
場所・駒ケ根文化センター小ホール。
入場無料。
詳細・コットンショップ・マルコミ(TEL83・2553) -
駒ケ根市を代表して10年ぶりに県の消防ポンプ操法大会、小型ポンプ操法の部に出場する第1分団3号の団員とそれを支える第1分団
操作始め!―。 早朝のグラウンドに声が響く。 今月13日に開かれた第50回上伊那消防ポンプ操法大会、小型ポンプ操法の部に出場。念願の優勝を果たし、県大会への出場を決めた駒ケ根市消防団の第1分団3号。過去にも上伊那大会では2位、3位という好成績を残してきたが、なかなか優勝できない悔しさを味わってきた。それをばねにして訓練に励んだ結果が、今回につながった。駒ケ根市消防団が県大会へ出るのは実に10年ぶり。 「『なぜ優勝できないのか。どうせなら優勝したい』と頑張ってきました。県大会に出場するのは初めてなので、上位に食い込めるよう精一杯頑張りたい」。 指揮者の杉山さんは意気込みを見せる。 ◇ ◇ “自分たちのまちは自分たちで守る”の精神に基づき、地域の非常時に備えて日々の訓練を重ねている団員たち。ほとんどが仕事を持ちながら活動しているため、必然的に訓練時間は早朝や夕方となる。大会前になると、訓練は毎朝。3号の団員たちは、それに加えて自主的に夕方にも訓練をしてきた。 「それでも、ここまでできたのは分団が一丸となってサポートしてくれたから。みんなの協力がなければ、ここまでできなかった」と振り返る。 団員たちを支えているのは分団だけではない。 家族や職場、地域―。 さまざまな支えを受ける中で、“地域のために”という思いを一層強めてきた。 ◇ ◇ 本番を直前に、最後の訓練にも熱が入る。 選手たちを見守ってきた北原分団長(35)は「かなり良い状態となっており、気合も入っている。練習の成果を当日発揮できれば、上位進出も夢でない」と期待を込める。 08年度第50回長野県消防ポンプ操法大会は27日、立科町の町総合運動場で開かれる。
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商店街の賑わい復活を目指す
わいわいワクワク市民の会の商店主メンバー
守屋博夫さん(59)
福沢治朗さん(56)
宮沢清高さん(55)まちの元気を取り戻そう竏秩B
思いを同じくする仲間やNPO法人とともに今月初め、駒ケ根市銀座商店街内の空き店舗を改装して「みんなの広場」をオープンした。ホールは気軽に立ち寄れるオープンカフェとして開放し、お年寄りや若者に利用してもらうほか、各種イベントの開催、学習会、展示会会場などとして、多くの市民に活用してもらいたいと考えている。
「これだけ間口の広いところが閉まっていたんじゃもったいない。広場としてオープンできて本当に良かった。今はまだ手探りの状態だけど、最終的には若者からお年寄りまで、さまざまな世代の人が集える場にしていきたい」と福沢代表。
今後は11月までの間、さまざまな取り組みを実施し、その中から良いものを選んで継続していく予定だ。
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上伊那農業高校「果樹班」
高校農業科の生徒らが研究を発表し合う県学校農業クラブ連盟各種県大会プロジェクト発表(12日、更級農業高校)の食料部門に出場し、発表題目「花粉を征する者は果樹栽培を征する縲怏ハ樹花粉の長期貯蔵及び溶液受粉法に関する研究縲怐vで最優秀賞を受賞した。
発表内容は、開花期のナシ栽培上の問題をきっかけに、長年調査研究して確立した果樹の溶液受粉法及び花粉の長期貯蔵法について。園芸科学科の2、3年生が中心となってつくる「果樹班」が足掛け8年間にわたり、継続テーマとして研究してきた成果だ。
本年度のメンバーは3年生15人、2年生12人、1年生2人の計29人。県大会にはメンバーの代表6人が発表のため出席した。大会同部門には、農業科のある県下12校のうち7校が参加し、それぞれプロジェクターなどを使って研究成果を披露した。
ナシ、リンゴなど人工受粉が必要な果樹が多く栽培されている上伊那地方。果樹の開花時、凍霜害で結実不良が起きやすいため生徒らは、2001年度からナシを対象に被害防止法の研究を始めた。数年後には、農水省が省力化のため提唱した溶液受粉法を凍霜害対策に応用し、効果を確かめた。
粗花粉はスプレー散布の際、容器に詰まりやすく、また、長期保存ができない。そのため、溶液受粉法を研究する中で試行錯誤を繰り返し、精製した花粉を用いるなどで長期貯蔵が可能となることを実証。07年度には、精製済み花粉をリンゴやモモへ利用し、散布試験も行った。
県大会の最優秀賞受賞により、「日本学校農業クラブ北信越ブロック大会」(8月19縲・0日・石川県)に出場する。発表では、長期貯蔵花粉を用いた溶液受粉法を地域に普及する観点から、地元の栽培農家や専門家の意見をまとめ、紹介したいという。
果樹班顧問の北原千歳教諭は「近年の県大会は、各校が長期にわたって研究してきた成果を発表している。地道に研究することは大切。今回は県大会で最優秀賞を受賞できたが、成果が出なくても積み上げていくことが重要となる。技術改善のためにも」
2年間研究に携わった3年生、近藤由佳さん(18)は「他の学校のレベルが高かったので不安だったが、最優秀賞を受賞できてうれしかった」。北信越ブロック大会に向けては「先輩の分も、今まで続けてきた研究の成果を発揮できれば」と意気込んでいる。
日本学校農業クラブ北信越ブロック大会に出場する「果樹班」の代表 -
【NPO「トンボ谷の山育て村」会長 石原信行さん】
「人間は自然の力を借りて生きていることを自覚するべき。ここでは生きる上での基本が確認できる」
ずっと暮らしてきた名古屋市から今年4月に伊那市新山の山林に移り住み、都会の人や子どもたちとともに山の良さを実感できる場所にしようと「トンボ谷の山育て村」を立ち上げた。
名古屋市の職員だった2年前、KOA森林塾の通年コースを受講し、山についての基礎知識を学んだ。
「森林の素晴らしさを実感し、それまで漠然と考えていただけだった田舎暮らしに具体的で明確なビジョンが見えてきた。せっかく暮らすなら田んぼや畑の中ではなく、山林にしようと竏秩v
いくつかの候補地の中から、山の様子が気に入った新山に決め、約6600平方メートルの山林を購入した。昨年5月、山林内の一部を造成し、夢だったログハウスの建築に着手。専門業者の手を借りつつ、協力を買って出た友人らとともに家造りに汗を流した。
今年定年を3年余して57歳で退職。山での暮らしを始めた。
「住むならログハウスと思っていた。壁に木の地肌が見えている風情がいい。木材は飯田産の遠山杉を使っている。今年4月に住み始めたが、最高に快適。夏になっても涼しく、名古屋の暑さとは比べるべくもない。冬も暖かいというが、これは未経験だからまだ分かりませんね」
特に気に入っているのは、こだわって手造りしたという五右衛門風呂。
「下からゆっくりと温かみが伝わってきて何とも言えないほどいい気分です」
水は深さ40メートルの井戸からくみ上げている。家にはテレビもない。 「不便な生活に見えるかもしれないが、これこそ心豊かに生きる暮らしというものじゃないかな」
◇ ◇
「トンボ谷の山育て村」は山林での生活を楽しむ場だ。
「田舎での暮らしを通じて、何か社会に貢献できることがあるのではないかと考えた。機能性優先の都会に暮らす人たちに、もっと自然の良さを理解してもらい、自然の流れの中での生活リズムを体験してもらえたら竏秩Bそんな人たちが気軽に来られるスペースを提供したい」
訪れた人たちを泊めるゲストハウスはまだ建築中だが、年内には完成させたいという。
購入した山林は以前カラマツを植林した人工林だったが、伐採された後に広葉樹などが自生し、現在は自然の雑木林になりつつある。
「だが、このまま放っておくとボウボウの山になってしまう。日本の里山は、手を入れてつくる自然ともいうべき存在。ここはほんの小さなエリアではあるが、頑張ってそんな山にしていきたい」
(白鳥文男) -
はなクラフト(パンの花)ルナ・フローラ伊那川北教室主宰
伊那市
赤羽弘美さん「自分の好きな色に色づけできる。私好みのお花ができる。それが魅力です。作っているときも、すごく楽しい」
ジュンコ・フローラ・スクールの公認教室を自宅で開き、今年で20年を迎えた。パンの花、染の花、香りの花を教えている。
パンの花との出合いいは20歳のとき。静岡のデパートで目にした瞬間、「ビビッとくるものがあった。衝撃的な出合いでした」。ずっと頭の中にあったパンの花。2度目の出合いは今から25年前。名古屋のデパートで見て、「私もやりたい」という思いが心の中に大きく膨らんだ。
当時、長野県内で学べる教室は長野市にしかなかった。子どもが小さかったため、実家の母に子どもを見てもらい、伊那の自宅から急行に乗って片道3時間かけて通った。「とにかく早く資格を取って、私も教室を開きたい。その一心で頑張りました」。
5年間通って資格を取得し、念願の教室を開講。その後、次々と発表される新しい技術を身に付けるため、現在も東京に通って学び続けている。
「パンの花は、ほぼ半永久的。それも魅力です」。パステル調が好きで、淡く優しい色合いの作品が部屋に飾られている。昔は大作が多かったが、近年の作品の傾向は、小さくてもデザイン性のある、手軽にできる作品に変わってきたという。
陶器調に仕上がるラペリスフラワー、本物そっくりのリアルアート・フラワーなども手がけ、今は7月に開講したばかりの透明感のあるシースルー・フラワーを勉強中。「新しいものが学べるので本当にうれしい」と意欲的だ。
指導も熱心で、身に付けた技術は惜しげなく生徒に伝える。多くの人にパンの花などの魅力を知ってほしいと体験講習会も随時開いている。「お教えすることも好きですね。生徒さんから教わることもいっぱいあります。平凡な主婦だけで終わっていた人生が、すてきな方々と出会えて日々成長した。私にとってものすごく大きな財産になっています」。
07年3月、ジュンコ・フローラ・スクールが創立40周年で初の表彰を実施。特別奨励賞を贈られた。受賞の喜びとともに、これまで協力してくれた夫や家族への感謝の気持ちがより強くなった。
20周年を記念して8月21日から25日まで、「はなクラフト(パンの花)ルナ・フローラ20周年記念展」を伊那市のかんてんぱぱホールで開く。生徒作品も含め200点近くを展示する。「いろいろな作品が並ぶので、ぜひ皆さんに見ていただきたい」。バラの形の香りの花を毎日20個プレゼントする計画で、合計100個の花作りや展示作品の仕上げなど、今は記念展に向け忙しい日々を送っている。(村上裕子) -
駒ケ根市の中間教室で子どもたちの成長を見守る
塩尻市
百瀬千秋さん中間教室は学校の校地外にある支援教室。ここには、さまざまな事情で学校に登校できなくなった子どもたちが通ってくる。その教室の指導員として、子どもが自分のペースで学校に復帰できるよう、支援している。
「ここに来る子たちは基本的に純粋でまじめ。善悪の判断もしっかりしている。しかし、世の中が変化する中で、そうした人間的な子どもたちほど、困っているのが現状。そういう姿を見ると『誰かがこの子たちの側にいてあげなければ』と強く感じます」と話す。
◇ ◇
十数年前までは教員として各地の学校で勤務していたが、当時の子どもたちは、反社会的な行動をとることで世の中への不満をぶつけていた。
「生徒指導もしていましたが、ネクタイをつかまれ持ち上げられることもよくありました」と振り返る。
しかし今、中間教室へ通ってくる子どもはそれとは正反対。親や友人、先生などとの対人関係に疲れ、さまざまなプレッシャーを背負いながら自分を見出せずにいる。一人ひとりが抱える不安や悩みのもさまざまだ。
「本当は親に悩みを打ち明けられるのが一番いいんです。それができないというのは切ないですね」と語る。
◇ ◇
ここへ来てからしばらく経ったころ、中間教室に通い始めた一人の女の子が思いを打ち明けてくれた。
生徒なら誰もがもらえる通知表。しかし、その子の通知表には「授業にでていないので評価できません」の文字。
ああ、私を見てくれる人はいないんだ竏秩B 彼女はそう実感したと話した。
衝撃を受けた。その子が感じた疎外感、孤独感がひしひしと伝わり、切なかった。
その後、急いで自分の家にあった画用紙を持ち出し、中間教室に通う児童や生徒一人ひとりのための通知表を手づくりして配った。一般的な通知表とは違い、子どもたち自身がメッセージを書き込む欄も設けた。
するとその子は1学期、2学期と月日を経るごと元気を取り戻していった。1年が終わる3学期の通知表には、こう書かれていた。
「この中間教室に来てとても良かったです。来年も毎日休まず、一日一日を大切にしていきたいな」。
嬉しかった。
「それぞれ時期は違いますが、多くの子どもたちがそうやって成長していきます。一日一日を肥やしにして。それが私の何よりの生きがいです」と笑顔を見せる。
◇ ◇
今では、ここを巣立った子どもたちが社会人となり、さまざまな職場で働いている。そして、時々顔を出す。
「職種もいろいろですが、それぞれ誇りを持って仕事をしている姿を見ると、心からすごいなと思います。自分が支える側となり、悩んでる後輩をサポートしてくれる子も多い。痛みを知っているからこそ、優しくすることもできる。だから、ここの子どもたちは一番人間らしいんです。子どもたちには自分で自分の生き方、進み方を見つけてほしい。そしてみんなに幸せになってほしい」 -
【高遠断酒会】
酒を飲み続けていると誰でも侵される可能性がある病気、アルコール依存症。きっかけは人によりさまざまだが、定量を超えて飲み続けることが原因の一つともいわれる。多くの場合、自分でも気付かないうちに酒量が増え、次第に一日中飲まずにはいられない状態となる。進行すると精神的、肉体的な禁断症状が現れていつしか職を失い、家庭は崩壊。社会的信用もなくなり、体を壊してついには死に至る竏秩B
酒をやめられないのは性格や意志の弱さゆえではない。脳への作用によって体がアルコールを求め、自分の意志で飲酒を止められない状態に陥っているからだ。アルコール依存症は、回復はしても完治することはないとされる。10年、20年と断酒していても一杯の酒で再び元の状態に逆戻り。酒の量を控えても駄目で、再発しないためには一生酒を断つしかない。だが、酒を飲みさえしなければ何ら普通と変わらない生活を送ることができる。
◇ ◇
「断酒会」は1958年、アルコール依存症に悩む人たちの自助組織として高知県で生まれ、5年後には全国ネットワークもできた。高遠断酒会は78年に発足。向山金治さん(77)が会長を務める。
「20歳ごろから飲み始めたが、当時の写真を見るとどれも一升瓶を持っている。結婚してからも勤め先のロッカーの中や弁当の底に酒を隠して、朝でも昼間でも飲んでいたよ」
体を壊して入院しても、体調が少し良くなるとまた飲んだ。母や妻が泣いて頼んでも「自分で稼いだ金で飲んで何が悪い」とはねつけた。
45歳の時、その母が亡くなったことで「今やめなければ一生やめられない」と断酒を決意。仲間5人とともに高遠断酒会を発足させた。
断酒会の例会は依存症の会員が定期的に集まり、それぞれの悲惨な体験を語り合うことで酒害の恐ろしさを互いに再認識する。同じ思い、似た体験を共有する人の話を聞くことで疑似体験ができ、二度と酒を飲むまいという気持ちが強くなる。妻や子に暴力をふるい、家庭がバラバラになったことや、死ぬほどの苦しみを味わった体験を涙ながらに語る人も多い。依存症の被害者側ともいうべき妻や子も出席して体験談を語る。これを地道に繰り返すうち、断酒生活が身についてくる。断酒会は依存症の泥沼からはい上がるための大きな助けになっているのだ。
「おかげでその後30年間飲んでないよ。いや、一度だけ断酒会の帰りに飲んでしまったことがあったが…それだけだ。会を立ち上げた手前、逆戻りするわけにはいかないから」
事務局を務める嶋村直人さん(53)は仕事そっちのけで酒びたりとなり、妻に愛想を尽かされて離婚するはめになった。
「飲み過ぎで体が動かなくなったが、それでも酒は離せない。ある日ついに血を吐いて病院送り。酒をやめるために断酒会に入ったが、やめるのは苦しい。歯を食いしばって耐えた」
1年たち、2年たつと苦しさも徐々に和らぎ、断酒に半信半疑だった周囲の見方も違ってきた。断酒のかいあって離婚から6年後、妻との復縁がかなった。
「地獄を見たければ依存症の家、極楽を見たければ断酒の家竏秩B仕事から帰って『ただいま』と言うと返ってくる『お帰りなさい』の声、家族皆で囲む食卓での何げない会話と笑顔。普通の家庭のそんな小さな幸せを今はかみ締めている。生きていてよかった」
(白鳥文男) -
長野県自主防災アドバイザー
伊那市山寺
河合邦房さん 関川重雄さん今年1月下旬、長野県から「自主防災アドバイザー」の委嘱を受けた。南信で20人、伊那市3人のうちの2人で、山寺区上村町自主防災会で共に活動している。
河合さんは、自主防災会発足時からの会長。役員は3年任期で、今年で2期4年目を迎えた。関川さんは伊那市民生児童委員協議会長でもあり、「自主防災会になくてはならない存在」という民生委員の立場で会発足から関わっている。
自主防災アドバイザーは、市町村や県と連携して自主防災活動を支援するボランティア。任期は3年。年1回、県の研修を受けるほかは、地域住民により近い立場で、市町村職員と一緒に自主防災組織の立ち上げ、防災訓練、支え合いマップ作りなどの相談に乗り指導、助言をする。
「説明してくれと言われれば、いくらでもする」。2人には、上村町自主防災会で培ったノウハウがある。
上村町自主防災会は05年6月、「実際に行動できる自主防災組織が必要不可欠。自分たちで出来ることは自分たちでやろう」と発足した。その背景にあったのは、04年の台風23号で戸谷川が氾濫し伊那北駅前が浸水した災害経験。隣り地区のため応援に駆けつけたが傍観するしかない現実に、町総代が会長を務め1年で組織更新する当時の自主防災組織では有事に機能しないことを実感したからだ。
会員は男女40人。これまでに自主防災緊急連絡網、防災地図、救助マップ、危険個所マップを作成。救助マップは、緊急時救助承諾書の作成で各戸を回り、理解を求めて頭を下げ、当初60%の回答率も今は100%になった。梅雨期の防災訓練と秋の救護訓練、備品の手入れ、消火栓点検、貯水池の点検や泥上げのほか、大雪の日には1人暮らし世帯の雪かきもする。
「会員はすごく盛り上がっている。ただ町民が乗ってきてない。それが切ない」と河合さん。200世帯560人、さらにアパートの住民110人余。大災害発生時の救助は2日は来ないと考えた場合、会員40人だけでは限界がある。「これからの勉強会やPRだと思う。住民の意識向上の働きかけが課題」と関川さんはいう。
「4年目でやっと余裕が出来てきた」自主防災会。医療関係者の入会勧誘の検討など、活動は次の段階を迎えている。
「地震、災害の怖さを経験しないと真剣に考えてくれない」。防災意識を広める難しさも知る2人。課題も含め、これまでの歩みすべてが自主防災アドバイザーとしての助言に生きてくる。
「伊那市の住民支え合いマップ作成率は21・8%。中心市街地がすぽっと抜けてマップがないことが一番心配。この3年で少なくとも60%にしたい」と関川さん。河合さんは「自分たちがやったことを、皆さんに優先的にやってもらうよう勧めたい」という。(村上裕子) -
蚕を育てながら命の大切さ学ぶ
赤穂東小学校4年2組(内山和美教諭、31人)卵から一生懸命に出てくるところがすごかった。感動した竏秩B
昨年から蚕の飼育に取り組んでいる4年2組。初めてだった昨年は、卵からかえった蚕をシルクミュージアムから提供してもらい、成虫なるまで育てた。
2年目の今年は、卵からの飼育に挑戦。先月はじめ、昨年育てた蚕が産んだ卵、約400個が無事ふ化した。
しかし、卵からかえった蚕を見て児童らはびっくりした。なぜなら、卵から出てきた蚕は1、2ミリしかなく、色も白くなかったからだ。
本当にあの白い蚕になるのかな?竏秩B
最初はそんな思いもあったが、1カ月の間にぐんぐんと成長し、あっという間に見慣れた姿に変化。胸をなで下ろした。これからは更に大きく成長する。
「いっぱい葉っぱを食べて、どんどん大きくなってほしい」と笑顔で話す児童たち。 -
【ラーメン屋「咲来軒」店長 桜井純一】
「やっぱり、自分で店をやるというのは責任が必要。大変だけどお客様が満足そうに、ごちそうさまと言ってくれる、小さな子どもが、おいしかったと言ってくれる、その言葉にいつも元気づけられる」と笑顔で話す。
伊那市の上牧、県道・伊那辰野停車場線(通称・竜東線)沿いに「咲来(さくらい)軒」を開店して1年と2カ月が過ぎた。
子どものころから料理が好きだったこともあり高校卒業後、松本市の松本調理師専門学校へ進学。卒業後、岡谷市の「来々軒」で修行を始めた。
「父が店長と知り合いで、小さいころからよく食べに行った。昔から来々軒の味が好きだったから」と理由を話す。
来々軒は1949年から続いている老舗のラーメン屋。「見て覚える」を基本に、店の味を修得するため8年間修行。「家族のように接してくれて、今も公私にわたってお世話になっている」と感謝する。修行の後半にはスープやギョーザを任された。
来々軒からのれん分けしてもらったが、伊那市にすでに同名の店があることから、来々軒の店長が桜井の・スサク・スと来々軒の・ス来・スの字を取り「咲来軒」と名前をつけた。
「自分が好きな来々軒の味を、伊那で広めていきたい」そんな思いを抱き、昨年4月に開店。
「今、一番の目標は来々軒みたいに自家製のめんで作ること」と意気込みを語る。
現在メニューはラーメン(650円)、パーコーメン(880円)、豚バラーメン(900円)、チャーシューメン(千円)やギョーザ(400円)、カツ丼(900円)など。
今年は夏のメニューに力を入れていきたいとのことで「冷やし中華」「冷やしラーメン」「ジャージャーメン」「冷やしタンタンメン」「冷やしマーボーラーメン」などを企画している。
伊那市上牧出身。趣味は野球で現在伊那市の早起き野球チームに所属している。実家で両親と祖母、妹と4人で暮らす。 -
【写真家 木彫家 牧田博江さん】
1924(大正13)年に父が興した「マキタ写真館」を、東京での修行を経て20歳で受け継いだ。父とともに好きな仕事に励んだが10年後、父が亡くなってしまう。父と一緒に植えた思い出のイチイの木も、時を同じくして枯れてしまった。
「枯れた木を見ていたら、飛騨高山の一刀彫りが頭に浮かんできてね。木彫はやったことがなかったが、なぜか大黒様を彫ろうと思った。あれが原点だ」
その後しばらくは我流で彫っていたが、伊那を訪れた指導者に教えを受ける機会があった。
「一番勉強になったのは木の選び方。材料の木は硬かろうが軟らかかろうが太ければ何でもいいと思って使っていたが、その時に北海道産は木目が細かいとか、イチイはつやがあるとか、多くの知識を学ぶことができた」
もともと絵やデザインが好きだったこともあって木彫の奥深さにとりつかれ、仏像、道祖神、だるま、風景、人物など、さまざまな作品の制作に熱心に取り組んだ。
ある時、龍光寺(伊那市狐島)に水子地蔵を贈ったところ大変に喜ばれたことから、それ以降、苦労して彫り上げた作品を図書館などの市の施設や神社、寺などに惜しげもなく寄贈してきた。
請われて伊那公民館の木彫講座の講師を務める一方、伊那木彫クラブを設立し、木彫の魅力を広める活動に取り組んだ。
「木彫は簡単にできるもんじゃないから、それだけ出来上がった時の喜びは大きい。数限りなく作品を作ってきたが、望まれれば差し上げる。飾って喜んでくれるのがうれしいからね」
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写真家としても、10年に1度ずつ、主に伊那谷の景観をテーマとした個展「ふるさとの四季」を開いてきた。毎年元旦には西箕輪与地に出掛けて行き、仙丈岳の頂部から昇る日の出を撮影する。
「かれこれ30年にもなるかな。ポイントを決めて撮るんだが、10メートル違っても作品は変わってくる。ある年など、考えたイメージと違うことに日が昇り始めてから気が付いて、慌てて三脚を持って移動したこともある。まあ何しろ魅力的だね、仙丈岳は。伊那の一番の象徴だ」
個展は今年で4回目の開催。終了後、前回に続いて作品すべてを市に寄贈した。
「今の伊那図書館ができる時に建設委員会の事務局を務めたのだが、文化振興のためにもぜひ館内にギャラリーをつくってほしいと掛け合った。それが認められて今の広域情報コーナーができたんだ。いつかここで作品展を開きたいと思っていたが、古希の節目に当たる今回、ようやく希望がかなったよ」
(白鳥文男) -
24日に国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊としてケニアに立つ
駒ケ根市北割
秋田ミラ流氷さん(23)小さいころから隊員の人たちをたくさん見てきました。実際に現地の人と一緒に暮らしながら仕事している様子を見た時、純粋に「すごいな」って思った。そのころから、私も大きくなったら協力隊員になりないなって思っていました竏秩B
さまざまな思いを胸に本日、任地であるケニアへ旅立つ。主な任務は現地の中学校で理数科教育に取り組むこと。赴任する中学校は教員が不足しており、特に数学、理科の教師が足りていない。そこで、その補足的役割を担うとともに、授業の質向上に取り組むことになった。
「言葉もできないし、肌の色も違う。困ったり、迷惑をかけることも多いと思うけど、現地の人、特に子どもと仲良くなりたい。新卒で技術もそんなにないので、仲良くなることが一番の目標です」と語る。
◇ ◇
協力隊員になりたい竏秩Bそう思うようになったのは小学生のころ。ネパール人の父がJICA駒ケ根青年海外協力隊訓練所の職員だったため、幼いころから協力隊は身近な存在だった。
その思いが現実味を帯びてきたのは大学4年生の5月。就職しようか、進学しようか竏秩B周囲の友人らが次々と進路を決めていく中、ぎりぎりまで進む方向を見出せないでいた。そんな時、学内で青年海外協力隊の説明会があり「だめもとで受けてみよう」と試験を受けることを決意。
一次試験を通過し、二次試験の面接では、これまで間近で見てきた協力隊への思いや、自分もなりたいと思っていたことを伝えた。
「試験はあまり緊張はしませんでした。その後、合格通知がきて。最初はネパールを志望していたので『どうしてケニア』と思ったけど、すぐに『行ってみたい』と思うようになりました」 -
南箕輪村消防 村で初めての信大生団員
南箕輪村消防団の信大生団員が初めて、選手として村ポンプ操法大会(29日・大芝の湯駐車場)に出場する。現在は大学院農学研究科修士2年で、卒業したら故郷・新潟県に戻るつもりだ。自分にとって最初で最後の大会。自ら役を買って出た。「ただ学生をやってるだけでは味わえない体験。足を引っ張らないよう頑張りたい」
村消防団第4分団第1部(沢尻)に入団して2年目。信大生団員の第一号だ。「1年目は順応するのに精いっぱいで、見てるだけだった」。今年こそはと部長に願い出て、部として出場する小型ポンプ操法の代表4選手の一人になった。役割は吸水の準備をする2番員。仲間たちと5月中旬から早朝練習に励んでいる。
「机に向かって勉強するだけが学生の仕事ではない。アルバイトをしたり、地域の人と会話したりと、いろいろな経験が社会に出たときに役立つと思う。消防団に入って、有事の際に自分が何をすればよいか考えるきっかけにもなった」
農学部森林科学科2年生時、中山間地を中心に被害を出した新潟県中越地震が起きた。震源地に近かった同県魚沼市の実家は一部損壊。「南箕輪村にいて何もできなかった。今戻っても迷惑をかけるだけ」。そんな折、3年生から中越地震の現地調査チームに加わることとなり、地域住民や復旧に携わる人たちの思いに触れる機会があった。「現場の防災研究や消防団の大切さを知った」
4年生時には、長野県などを中心に発生した豪雨災害で住民が避難しているとき、大学では授業をしていたことを「大学と村の連携が取れていない」と実感。「(有事の際には)学生でも何かできないか」と考え、村役場の紹介で修士1年から消防団に入った。
「地元の人とのかかわりが強くなった。自分の家と大学を往復する日々の中で、自分がどこか地域と隔離されている思いがあったが消防団に入団し、地域の一員になれている実感がある。新潟に帰っても、消防団には参加したいと思っている」
現在は、農地の復旧や農山村の今後のあり方などについて研究。森林、農地、集落が一体的となった農村づくりを目指すため、卒業後は、地元の建設会社に就職し、現場サイドから理想を現実のものにしていきたいと話す。 -
【伊那フィルハーモニー交響楽団団長 北沢理光さん】
高校時代は甲子園を目指して野球一筋に打ち込んでいたが、3年の夏に引退。就職に備えて上伊那図書館で勉強していると、講堂から伊那市民合唱団(現伊那混声合唱団)の美しい歌声が聞こえてきた。もともと音楽は好きだったが「野球ばかりで、ほかのことは目に入らなかった。でもその時に、音楽っていいもんだな、と思ってね。やってみたくてすぐに入団した」。
就職後は精密機械のエンジニアとして世界を忙しく飛び回った。30歳代後半のある日、手に取った新聞で、県の南部にも県民文化会館ができそうだ、と知り「ぜひとも伊那に文化の拠点を持ってこなくては」と強い思いにかられ、誘致活動に飛び込んだ。署名を集めたり市議会に陳情したりしたが、もっと強力なアピールはないかと考えた末に思い浮かんだのが、仕事で訪れたドイツの田舎町の風景だった。
「小さな町なのにちゃんとしたオーケストラがあって、子どもからお年寄りまでみんなが音楽を身近なものとして楽しんでいた。そうだ、伊那にもオーケストラをつくろう竏窒ニ思い立ったんだ」
見通しはまったくなかったが、持ち前の敢闘精神で「とにかく動き始めよう」と募集開始。ポスターなどで「未経験者でも歓迎」と呼び掛けたところ、60人ほど集まることは集まったが…。
「一番重要な弦楽器経験者がね、バイオリンただ1人だった。クラリネットやトランペット、サックスなどの吹奏楽経験者はともかく、ハーモニカや尺八の人もいたくらいだ。今じゃ笑い話だが、当時の伊那ではオーケストラがどんなものかさえ、あまり知られていなかったんだよ」
「こりゃ無理だ」「いっそ吹奏楽団にしたら」などの声もあったが、そんなこと言わずにみんなで頑張ろう竏窒ニ衆議一決。曲がりなりにもオーケストラとしての活動がスタートした。
とはいっても、弦楽器がなければオーケストラの体を成さない。メンバーそれぞれがバイオリン、ビオラ、チェロと担当を決めて各自で楽器を買い、鈴木メソードの教室に通うなどして基礎からの練習に取り組んだ。弦楽器未経験ではあっても、そこは下地のある人の集まり。楽器に慣れるにつれ、次第に音が整ってきた。
発足からわずか1年後の86年、第1回定期演奏会を伊那市民会館で開いた。曲はベートーベンの交響曲『運命』など。自身も「いい年になって始めるには難し過ぎた」というバイオリンを手にステージに登場した。
「バイオリンは結構人数がいたから、自分一人くらい難しいところが弾けなくても何とかなると思ってやった。懸命に弾いたけど、きっと変な音を出していたんだろうね」
伊那で初めての市民オーケストラの演奏を聴こうと詰め掛けた超満員の聴衆からは、割れんばかりの温かい拍手が送られた。
こうした涙ぐましいほどの努力が実り、文化会館の誘致は首尾よく成功。88年の開館時には、こけら落としの晴れのステージを務めた。曲はベートーベンの交響曲第9番『合唱付き』。これ以上ない最高の舞台で・ス歓びの歌・スを奏でた。
◇ ◇
ここまでくればもう何でもできる竏窒ニ「いな少年少女合唱団」や、60歳以上の女性による合唱団「ザ・シワクチャーズ伊那」などの結成にもかかわった。
「次は伊那初の市民オペラをやりたい。5年後ぐらいが目標。ソリストは呼んで来るけど、オーケストラと合唱団はもちろん伊那の自前だね。故高木東六先生作曲の『春香』がいいんじゃないかな」
現在は伊那市生涯学習センターのコーディネーターとして、さまざまな音楽文化の発信に取り組んでいる。
「自分が演奏して楽しむより、音楽文化の裾野を広げるような活動をしたいから、とてもありがたい仕事だね。生活の中にいつも音楽がある、そんな伊那になるための手助けができればうれしい。あのドイツの小さな町のようにね」
(白鳥文男) -
アトリエROSE主宰
伊那市
飯田恵理さん大好きなバラをアトリエの名前にし、自宅で教室を始めたのは05年。パンの花、ビーズアクセサリー、フリーメタリコを指導し、今年で3年目を迎えた。
「好きなバラを作りたい」と17年前、パンの花を習い始めた。バラは一番神経を使う難しい花とされ、「教えていただくまでに10年かかりました」。いつかは大輪のバラを作りたいと夢見て習い続け、ようやくバラが出来るようになったが、最初の作品は「なんでこんなに下手なんだろう」と思ってしまうような出来だった。いくつもいくつも作り、ようやく自分なりに納得できる作品が作れるようになったといい、アトリエのプレートはバラで飾っている。
ビーズは、楽習フォーラムで06年にビーズスキル認定、07年にビーズアートステッチ技能認定を受けた。「きれいなもの、かわいいものが好き」で、ビーズアクセサリー作りを始めたのは学生のころ。「スワロフスキーなど、とてもきれいなものに触れていることがうれしい。それがまたネックレスなどの形になっていくことがうれしくて」。ビーズ歴は30年近くになる。
フリーメタリコとの出合いは04年。雑誌を見ていて、すっかりその魅力にはまった。フリーメタリコは、イタリア生まれの銅線をカラーコーティングして編んだ筒状のリボンで、ビーズなどと組み合わせてネックレスやコサージュなどを作る。
「同じ作品を作ったとしても、リボンの広げ方で個性が出る。世界に一つしかない形を表現できるのが魅力」。07年夏に教授資格「プロフェッソーレ」を取得した。地元ではまだフリーメタリコの知名度は低く、上下伊那で資格を取った最初では-という。
ビーズもフリーメタリコも、「楽しいですね。1日でもやっています」と、とにかく作ることが好き。「皆さん作る時間がないとおっしゃるけれど、私は作りかけのものを近くに置いておき、家事の合間に3分でも5分でも座ってやるんです。食後にちょっとお茶を飲む時間にも、ビーズステッチを1センチでも作りたい。常に触っていたいんです」。主婦なので家事も決しておろそかにせず、手際よく片付けて自分の趣味の世界を楽しんでいる。
「パンの花は1輪でもいい。作ってみたいという方がいらっしゃるとうれしい。ビーズももちろんですけど、フリーメタリコも、ぜひ皆さんに知ってほしい。気軽に教室をのぞいていただきたい」
多くの人に魅力を伝えたいと、和やかな雰囲気の教室で指導するほか、作品は販売もする。ブライダルのブーケやティアラなど一生の記念に残る作品も注文に応じて手がけている。(村上裕子) -
昭和伊南総合病院小児科外来で看護師らと「赤ちゃん相談」を企画
助産師
駒ケ根市中沢
松尾睦さん(48)お母さんたちの力になりたいんです竏秩B
医師不足の影響で産科の常勤医師がいなくなり、この4月から出産の取り扱いをやめざるを得なくなった昭和伊南総合病院。その小児科外来で今月5日、看護師らとともに、新生児から生後3カ月くらいまでの乳児の相談を受ける「赤ちゃん相談」を開始した。
「お母さんたちが一番心配なのは、1カ月検診が始まるまで。その間は何かと心配事も多い。でも、産後1カ月は自分で運転するのも大変だし、その都度遠くの病院まで行くのは負担になる。だったら、ほかの病院で出産して地元に戻ってきたお母さんたちに、近い昭和伊南に来てもらえればと思ったんです」と語る。 -
【県弓道連盟会長 範士8段 山川茂樹さん】
6月、弓道の振興に尽くした長年の功績が認められ、県知事表彰を受けた。
・ス範士・スは武道の称号の最高位で、全国でも数少ない。そのため段の審査員や講習会の講師、大会役員などの役で忙しく全国を駆け回り、週末はほとんど家にいない。
「県庁での表彰式にも出席できなかった。残念だったが、動けるうちは動いて弓道に恩返ししたい。表彰は関係者や家族のおかげです」
◇ ◇
弓道は22歳の時、職場の弓道部の先輩に誘われて始めた。それまで弓には触ったこともなかったため、初めのうちは習得にかなり苦労した。
「基本を徹底的に教え込まれた。頭では分かっても体はなかなか覚えてくれない。正しい型を体に覚え込ませるため、ひたすら同じことの繰り返しだった」
わずかの時間も惜しんでけいこに打ち込み、良い指導者に恵まれたこともあって徐々に頭角を表した。全日本弓道選手権には3回出場して最高6位に輝いたほか、国体にも出場するなど活躍。
子どものころは、恥ずかしがりで消極的だった竏窒ニいうが「弓道は自分との戦い。誰も助けてくれない。弓のおかげで自分を強くすることができたし、感謝の気持ちや人に対する気配り、気遣い、調和の大切さを教えられた」。
経験を重ねるにつれ、後進の指導にも力を入れる。教えてきたのは武道の精神。弓道を通じて心を鍛えることだ。
「的は静止している。その的に向かって射た矢が当たらないのはすべて自分の責任。だからこそ、常に反省がある。それが日常の社会生活や生き方、人生観に影響してくるんです。正しく引けば当たるはず竏窒ニはいっても、人間である限り、心も体も常に動揺している。心、体、技を安定させ、集中することが大切」
「現代の乱れた社会の中で、弓道には人の心に一番必要なものがある。武道はスポーツとは違う。精神が欠けては武道ではなくなってしまいます。弓は何万回引いても、すべて同じにはできない。人生に同じ瞬間が二度とないのと同じようにね。だからその時その時に集中し、全力を傾けなければならない。『射即人生』といわれるゆえんですよ」
米国にも2回渡り、ボストンとインディアナポリスで米国人の指導に当たった。彼らはまったくの初心者ではなく、ある程度の知識も技も持った者たちだった。
「遠い日本の文化に興味を持って真剣に取り組んでいるから、本当に一生懸命だった。日本人も及ばないくらいにね。向こうにもアーチェリー(洋弓)はあるが、西洋にはない精神性を弓道に求めていたようだ」
一昨年、国際弓道連盟が発足した。近い将来の世界選手権開催を目指している。
「古来伝承されてきた弓道の良さを保ちながら、国際的にも発展していけば素晴らしいね。その時に、大相撲のように上位は外国人ばかり竏窒ニいうようなことにならないよう、若い人の育成にさらに力を入れていきたい」
(白鳥文男) -
富県さつき会会長
伊那市富県
橋爪謙司さん玄関前をはじめ車庫や庭に、美しい色合いの見事なサツキの鉢がずらりと並ぶ。その数約100鉢。さらに盆栽も100鉢ある。
「サツキは咲き分けがある。真っ白の花の中に赤い花が咲いたり。それがいいじゃんかね」
20年ほど前、サツキの好きな弟が苗木を送ってくれたのがきっかけ。「やみつきになっちゃった」。定年退職後、本格的にサツキを育て始めた。
苗木を購入したり、挿し木をするなどして増やしてきた。品種は、山の光、日光、煌陽、大盃、華宝、翠扇などがあり、花色も白、朱、とき色などさまざま。単色もあるが、咲き分けの美しい鉢が多い。
管理で大切なのは、根が張って木が弱るのを防ぐための植え替えと、花が咲いた後の摘み取り。あとは水かけと肥料さえやれば咲くという。
「花の後の摘み取りが大変。全部しっかり取らないと、次の年に咲かない。来年咲くのが楽しみだから」と精を出す。
「サツキは花を楽しみ、その後は盆栽として楽しむ。2度楽しめるのがいいところ」。枝ぶりにもこだわり、枝が棚になるように小さいうちに針金で固定するなどして成形する。咲き分けでピンク色などが咲いた枝は、間違えて切らないように目印のテープを巻くなど注意を払い、大事に育てるという。
昨年は、霜の被害で上手く花を咲かせることが出来なかった。そのため今年は、「飲んで帰ってきても天気予報をよく聞いといて、霜の予報が出たら霜除けをして慎重に育てたよ」。そのかいあって、「今年は大きくて本当にいい花が咲いた」と満足気だ。
6月5日から4日間、富県さつき会の展示会を開いた。鉢は丹念に油で磨き上げ、盛りと咲き誇るサツキを出品。来場者250人を楽しませた。
これから咲く遅咲きのサツキを楽しみに、花が終わり始めた早咲きの鉢の手入れが始まる。それと同時に盆栽の手入れも怠らない。「サツキをやってたら盆栽にも興味が沸いてきて、めた増やしちゃって」。五葉松、錦松、ブナ、アケビ、柿など数えればきりがない。
「道楽ってもんだ。仕事は嫌だけど、これはごしたくない。農業しながら暇見ちゃやる。好きじゃないと出来ないね」。道楽とはいえ、全部で200鉢もの手入れ。「サツキでも100鉢くらいないとやる気にならない。熱が入らないからね」。そう言って楽しそうに笑った。(村上裕子) -
心を一つにしてアフリカンドラムに挑戦
赤穂小学校6年1組(若月美里教諭、31人)タタ ドーン タタ、タタ ドーン タタ竏秩B
校内に響く民族調のリズム。6年1組のアフリカンドラムだ。
昨年卒業した6年生から引き継いで、アフリカンドラムを始めたのはこの4月。右手に持ったバチと左手を使い分け、ドラムをたたくのは難しいが、この2カ月の練習を通して、ちょっと難しいセネガルのリズム「ンバラ」も全員ができるようになった。 -
【日韓親善伊那谷の会運営委員長 鄭康雄(てい・やすお)さん】
・ス今来人・ス(いまきびと・いまきのひと)は古代、大陸から渡来した人たちを指す語。
「彼らは文化や技術を持って日本にやって来た。私も現代の今来人でありたい」
◇ ◇
大阪で生まれ、5歳まで日本で暮らしたが、当時の記憶はほとんどない。早稲田大での留学を終えた父とともに韓国に移り、高校卒業までを過ごした。父と同じく日本で学ぼうと18歳で来日したが、経済的な事情などから大学入学は果たせず。韓国大使館の広報官として働く一方、力道山門下でプロボクサーとして数年間を過ごした。その後韓国の新聞の記者に。
「それまで自身では特に差別などを感じたことはなかったが、記者になったことで在日韓国人の体験や思いなどを知り、いろいろな問題に目を向けるようになった」
その偏見や差別を痛切に思い知ることになったのは結婚後。子どもが小中学校でひどいいじめに遭ったのだ。暴力的ないじめが繰り返され、ついには殴られて目を傷めたために手術する事態にまでなった。
「子ども同士のけんかということにしてその場は収めたが、あの時は本当につらかった。日本は韓国に対してひどいことをしてきた歴史的な経緯もあるというのに、さらにこんな仕打ちをする日本への反感が高まった」
そのころ、伊那で戦争展が開催された。その中で、戦争に反対して投獄され、死んだ人が伊那にもいたことを知り、ショックを受けた。
「日本は国民みんなの意志で戦争をしたと思い込んでいたのに、そうではないと初めて知った。この事実は韓国にも知らせる必要があると思いました」
90年、アニメ映画『キムの十字架』の上映実行委員会として発足した日韓親善伊那谷の会(キムの会)に中心的に参画。両国の相互理解と親善のための活動を始めた。当初は日本人のみならず、韓国人からも冷ややかな目で見られた。「面子やプライドはないのか」と後ろ指を指されたりもした。
「そんなことを言われたら立つ瀬がない。しかし、過ぎ去ったことをいつまでも言っていても仕方がないでしょう。両国は地理的にも近いし、民族としても同じで切っても切れない関係にある。過去は過去。歴史を教訓として、将来に向けて考えることが大切。両国の関係を改善するためには、間に入って中和する人も必要だと考えてやってきました」
その後の18年で国民感情はずいぶん変わった。日韓ワールドカップもあり、日本ではヨン様をはじめとする韓流ブームも起きた。
「今は差別の例はほとんど聞かない。本当に良かった」
◇ ◇
韓国は祖国だが、これから韓国で暮らそうとは考えていない。生まれた国である、この日本で生きていくと腹を決めている。
「自分に質問したんです。民族とは何か。国家とは、国民とは竏秩B結論は、私は私だということ。人間は一人では生きていけない。だから集まって社会をつくって生きる。その中で一番大事なのは家族です。家族が住むこの伊那谷が大事、この日本が大事。だから今住んでいるここが故郷なんです。その意味では国家というものはあまり意味がない。たまたま日本に住んでいるというだけのこと。この大事な故郷をもっと住み良い所にするための一環としてキムの会もある。その一員として、これからも自分がやれることを精いっぱいやっていきたい」
(白鳥文男) -
フィットネスインストラクター
伊那市
新田ひとみさん1週間に14縲・5本のレッスンを抱え、エアロビクスやピラティス、ストレッチポールなどを指導。休みは祭日のみで、忙しく飛び回っている。
最初に取得したインストラクターの資格はエアロビクス。30歳代での挑戦だった。
20年ほど前、闘病の末に息子を1人亡くした。「もぬけの殻みたいになった。気持ちを埋めて、夢中になるものはないか」と考えていたとき、エアロビクスに出合った。
「天職かもしれない」
週3回、雪が降っても自転車で通うほどのめり込んだ。インストラクター養成講座の募集に、「年齢が心配」と相談したが、是非と勧められ受講。見事に資格を取り、週1回の指導を始めた。
その後は、テレビや雑誌などで見たフィットネスを、まずは自分の体で試し、皆さんにもいいのでは-と思うものは資格を取った。
「試験では100%自分の力が出せないし、もう今年でやめよう、また試験かぁと思いながら足を突っ込んで。おだてられて、たまたま試験に引っかかって、これまでやってきました」
今は、AFAA会員・認定プライマリーインストラクター、JCCA会員・終了課程コアコンディショニンググループインストラクター、健康医科学協会員・認定健康支援トレーナー、ピークピラティス・アドバンスマットインストラクターと、4種の資格を持って指導に当たっている。
エアロビクスのレッスンでは、ステップから最終段階まで順を追って教える。うまく出来ない人がいたり、てきぱき教えられたと思ってもスタジオの後ろにいる生徒がぽかーんとしていることも。「反省して日々自分の勉強」だが、全員がきれいに動けるようになったり、生徒と一体感を感じられたとき、「やっててよかった」と思えるという。
「インストラクターをやめようかなと思うこともある。でも達成感があるから続けられる。それに、自分が動いていることが好きなんだと思う」
今月から、ストレッチポールの教室が伊那市生涯学習センターを会場に始まる。ポールの上に乗って筋肉やじん帯などを伸ばして体を緩め、さらにコアを鍛えて姿勢をよくするもの。「地元では知名度が低いけど、すっごい優れもの。老若男女できるので、ぜひ体験してほしい」という。
「運動を始めるとき、無理って思ってはだめ。やる前からあきらめる方もいるけど、そう思ったら何もできない」。最初は週1回でも、続けられるよう生活に取り入れ、ある程度慣れたら時間を増やすなど、とにかくちょっとずつの積み重ねが大事-とアドバイスする。
「子どもにずっと付き添い、病んで苦しんでいるのを見てきた。だから、元気に死にたい。健康でいられるのが一番だと思う」。多忙でも充実した日々。「おばあちゃんになっても、インストラクターができたらいいですね」(村上裕子) -
中川西小学校2年生(征矢浩平教諭、25人
)
「クックは角がある方で、ハッチは角がないよ。2匹ともとても元気だよ」。
中川村の中川西小学校2年生は昨年の10月から手作りの小屋でヤギを飼育し、今年3月27日に出産、雄2匹が生れた。子どもたちはヤギの飼育、感動的な出産シーンに立ち会い、命の尊さを学んでいる。
昨年、大鹿村の農家民宿、塩嶺荘でヤギを観察、ヤギの絵を描かせてもらった子どもたち。すっかり、ヤギが好きになり「ヤギを飼いたい。ヤギを中心にした活動をしよう」と、塩嶺荘から2歳の雌ヤギを借り受けた。
早速、子どもたちは小屋作り。最初は使わなくなったハト小屋を利用していたが、狭いため、運動場付の新居を古材を集めて建設に取りかかった。運動場の柵は子どもたちが作り、砂も運んで敷いた。
大鹿からヤギが到着、子どもたちは「ナナちゃん」と名付け、可愛がった。
小屋の掃除などヤギの世話は当番を決めて、みんなで頑張っている。ヤギは干草やキャベツ、菜の花が好物、子どもたちが家から持ち寄ったり、給食センターからもらってきている。
10月末に種付けをし、ナナちゃんのお腹がどんどん大きくなるのを見て、子どもたちは「いつ、生れるのかな」とワクワク。春休み中の3月27日、お産が始まり、子どもたちは急ぎ登校し、ヤギ小屋に集まった。
「おかあさんヤギは苦しそうだった」「1匹は死んじゃうかと思った」と子どもたちは心配したが、2匹とも無事生まれた。
「生れてすぐに、赤ちゃんヤギはふらふらと立ち上がった」「半日位で歩き始めた」「すぐに母さんヤギのおっぱいを飲み始めた」と驚きの目を向ける。
小ヤギも1週間もすると、草を食べ始め、子どもたちは「草をむしゃむしゃ食べた」「コリ、コリ、パリ、パリ食べた」「でも、母さんヤギのおっぱいも飲んでいる」と、細かく観察する。
小ヤギはまもなく、乳離れになり、子どもたちは乳しぼりができるようになる。今から、ヤギの乳でチーズを作ったり、ホットケーキを焼こうかなどと楽しみにしている。
征矢教諭は「ヤギを飼うようになってから、優しくなった。力を合わせて、頑張ることができるようになった」と育ちを。(大口国江) -
駒ケ根市文化財団理事長に就任
駒ケ根市赤穂町四区
小原恒敏さん(66)駒ケ根市にはいろいろな土壌があり、各地区の文化もさまざま。建物(文化センター)に関わる文化だけに限らず、市民のみなさんがそれぞれに関わっている郷土文化の振興も考えていきたい竏秩B
この4月、駒ケ根市の文化の拠点である市総合文化センターと「おもしろかっぱ館」などの管理・運営を担う文化財団の理事長に就任した。
「突然の話だったから正直戸惑った」と語るが、駒ケ根市の郷土芸能「駒ケ根太鼓」に30年以上携わってきたほか、郷土芸能の振興や保存を目的として始まった「駒ケ根郷土芸能まつり」の発足当時から関わるなど、地元文化への思い入れは強い。
「以前は良い家に住み、生活水準の高い生活をすることが『文化的な生活』と言われていた。しかし、毎日の生活の中で花を見たり、鳥の声を聞いたりする中で『美しいな』と感じる心を育んできたのが日本の文化。金銭的な価値を追い求める文化ではなく、日本に合った文化を大切にしていきたい」 -
【NHKビデオコンクールで優秀賞 石川はつめさん】
今年の第19回NHK長野ビデオクラブ作品コンクールで、最高賞に次ぐ優秀賞に入賞した。タイトルは「こいの季節」。自宅の庭のいけすで飼っているニシキゴイの産卵と稚魚の成長の様子を3カ月にわたって撮影した。
「コイの生き生きとした動きをとらえるのに苦労しました。でも一番困ったのは、規定で5分以内に編集しなければならなかったこと。撮影した映像は60分テープ3本あったので、残したいところが多くて本当に悩みました」
自宅にある編集機器の調子が悪くなって修理に出したため時間が足りず、最後は締め切りに間に合わせるのがやっと。何とか仕上げはしたが、まだ手直ししたい部分もあったという。
ナレーションも初めは自分で入れたが、娘が「声が暗いよ」と言って代役を買って出た。もう一人の娘は映像の雰囲気に合う曲を作ってつけてくれた。
「家族みんなが協力してくれました。でもそれ以上に、これまで指導してくれた伊那ビデオクラブの飯島会長さんはじめ、会員の皆さんのおかげだと感謝しています」
◇ ◇
ビデオを始めたのは96年。当時勤務していた会社に、アマチュアビデオ愛好者らでつくる伊那ビデオクラブ会長の飯島さんがいた。撮影したビデオを昼休みなどに見せてもらううち、自分でもやってみたくなり、飯島さんらの勧めもあって思い切ってビデオカメラを購入。
自称「機械音痴」で、ボタンやスイッチの多さに戸惑ったが何とか操作方法を覚え、勇んで自宅周辺の風景などを撮影。飯島さんに見てもらったが、評価は「目がぐるぐる回るようだ」と散々だった。肉眼で見るのと同じ感覚でレンズを上下左右に振ったため、落ち着きのない映像になってしまったのだ。「上達したければ、クラブに入るのが近道だよ」と言われ、クラブ入会を決めた。
「最初に教えられたのは、とにかく画面を安定させること。カメラがぶれないよう、面倒でも三脚を使うことや、パン(左右の移動)はゆっくりと竏秩Aズームも使い過ぎないように竏窒ネど、基本となるたくさんのことを本当に丁寧に教えてもらいました」
その後はどこへ行くにもカメラ持参でさまざまな物を撮影。テレビを見ていても撮影のことが頭を離れず、ズームはこうすればいいのか竏窒ネどと常に考えていた。その熱心さは飯島会長も感心するほど。次第に熱が高じて自分専用の編集機器も購入し、家事の合間の少しの時間も惜しんで撮影や編集に打ち込んだ。そのかいあって機械音痴も克服し、複雑な編集操作も人手を借りずに自在にこなせるまでになった。
「特に趣味はなかったので、ビデオを始めなければきっと今も何もしていなかった。だからクラブに入って本当によかったと思います。これからもクラブのみんなと一緒に、多くの人に見てもらえるような作品づくりに取り組んでいきたい」
(白鳥文男) -
上伊那華道会会長
箕輪町
春日セツ子さん創立50周年を迎える上伊那華道会。13流派87人で始まった会は現在、13流派317人で構成。6月に記念いけばな展を計画する。
「一口に50年と言っても大変な歴史と皆さんおっしゃってます。段々に人数が増え続いてきたことはすごいと思います」
小原流の教授で、同会に所属して43年。2年任期の会長職は09年3月まで務める。
会員は、各流派の教授者の資格を持ち、入門後10年以上経過した30歳以上の人が対象で、各流派からの推薦で入会する。
毎年華道展を開くが、会員が多いため出瓶は1年おき。半数ずつの展示をしている。
「50年は意義のあること」と、今回は前期、後期で全員が出瓶する。個々の展示スペースは、例年の間口1メートルから今回は90センチと少し狭くなるが、それでも記念すべき華道展を会員皆の作品で彩る。歴代会長や会員の名簿も作成。式典は8月に計画している。
同会の展示は、「自分たちの流派の花だけでなく、いろんな流派の花を見せていただける。勉強できるので諸流も大事だと思う」。1本1本の花に対しても水が落ちないように手を入れるなど、皆が心を配る。「花に対しては流派を超えて共通の思い入れがある」という。
教授資格を取って44年。自宅のほか2会場で教室を持ち、指導にあたっている。
23歳で華道と茶道を始めた。結婚により数年休んだが再開。「何かをやれば途中で放り出すのはきらい」で、子どもが小さいときはおぶったり、手を引き、自分が具合が悪くて寝ていても教室には通った。
小原流は自然の姿を水盤上に生ける「写景」があり、枯れた姿を生けることもある。「花は水をやらなければ枯れますし、手当ては面倒ですけど、人間の生き様に通じる。生の花に意義がある」という。
「いい先生に恵まれ学ぶことが多かった。親の教育もあったが、茶道、華道という道については1週間に1回通う中で何か得ることがあった」という。「主人の理解もあって、恵まれた環境を生かさせてもらった。打ち込めることがあるということは、毎日の張り合いにもなった」と振り返る。
今は、「楽しく来ていただける雰囲気を作り、手抜きのないように、私の蓄えた知識を教えたい」という。
上伊那華道会の記念展は6月6日から9日まで、伊那商工会議所イベントホールで開く。「なるべく大勢の方に見ていただけて、事故がなく会期4日間が過ごせればいいなと、役員としてはそれだけですね」。開催に向け準備が進む。(村上裕子) -
全国空手道選手権大会選抜長野県大会中学2年生女子、
形の部で優勝。全国大会へ
駒ケ根市空手スポーツ少年団で学ぶ
駒ケ根市町三区
新田杏奈さん(13)空手は人の道を重んずる武道。相手と戦うという一面もあるけど、試合が終われば『お疲れ様でした』と相手を思いやる。空手の礼を通して、人を思いやる気持ちの大切さを学びました竏秩B
今月11日、全国大会への出場権をかけて松本市で開かれた全国空手道選手権大会選抜長野県大会(日本空手協会長野県本部主催)の中学2年生女子の部に出場し、形の部で優勝、組手の部で準優勝という好成績を修めた。形の部では昨年に続く連続優勝。全国大会への出場は6年連続となる。
◇ ◇
空手を習い始めたのは保育園の時。その当時、大阪府池田市で起きた児童殺傷事件を見て「自分の身は自分で守らなければ」と、考えたからだった。
しかし、最初は体も小さく、体力もない。指導は厳しく、上級生とともに行う筋力トレーニングの競争では、毎回ビリだった。
辛い。つまらない竏秩B
そう思った。しかし、間近で見る先輩たちは強く、その姿に圧倒された。
「厳しかったけど、自分の目標となる先輩たちがたくさんいた。だから続けてくることができたんだと思います」と語る。 -
日本画家、千村俊二さん(61
「飯島町や駒ケ根市など故郷では10回ほど個展を開いたが、その都度、町内の知合いや高校の同級生などに応援して頂いている。故郷のみなさんは情に厚く、助けられている」。
現在、飯島町のJR飯島駅前ヤナギヤアミカホールで「自然との出会い」をテーマに「日本画展」を開催。
会場には雪深い八甲田山に分け入り、スケッチした大作「雪晴れ」。小雪降る中で凛と咲く「寒牡丹」。大鹿村の青いケシ畑で描いた「青いケシ」。萌黄色のバックに白い花が新鮮な「浜ゆう」。足元の小さな花にも目を止め、丁寧に描いた「シャガ」「シュウカイドウ」など花鳥図、富士山や赤石山脈など風景画などSMから50号の大作まで約40点がずらり。
1946年、飯島町本郷の日本画家、千村甫の次男に生れ、父の背中を見て育った。伊那北高校3年の時「画家は経済的には厳しいが、自分が努力すれば認められる世界。絵を描くことが好きで、父の影響もあり、日本画家を志した」。愛知県立芸術大学日本画科では風景、人物など基本を学んだ。同大学院修士課程の修了作品で描いた「海」が日本美術院展に初入選し「日本画でやっていこう」と進路が固まったという。以後、10年連続入選し、現在、院友になっている。「天然の岩から取り出した緑青(ろくしょう)、群青(ぐんじょう)など、光沢がなく、光を吸収する色の美しさ。油彩にも水彩にもない」と日本画の魅力を。
飯島町には実家があることから、年数回、スケッチに訪れる。「故郷は空気が澄んで緑がきれい。初夏の田んぼの早苗が風に揺らぐ、今の季節が最高にいい。この美しい自然をいつまでもと願っている」と話す。
個展は6月2日まで、開催中の21、24、25、6月1、2日には千村さんが来場する予定。(大口国江)
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【伊那節保存会3代目会長 鈴木一比古さん】
多くの人に愛されてきた民謡『伊那節』の良さを後世に伝えようと長く活動を続けている伊那節保存会の3代目会長。
保存会を設立して初代会長を務めたのは祖父の繁重さんだ。2代目会長だった父の千明さんが一昨年9月に亡くなったのを受けて、3代目に就任した。
曽祖父、富弥さんが始めたうどん屋から続く割烹「海老屋」の4代目経営者でもある。
「子どものころは店の宴会で毎晩のように伊那節が響いていたものだ。芸者衆もいたから、あちこちの部屋から三味線の伴奏や手拍子とともに歌声が聞こえてきてね、そりゃあにぎやかだった。伊那の人間なら誰でも歌えるのが当たり前だったのに、今じゃ歌えない人も多い。何とか、昔のように店の中に伊那節が響くようにできないものかと思っているんですよ。夢みたいな話だが、実際にそうなったら素晴らしいだろうね」
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「木曽へ木曽へとつけだす米は縲怐vの歌詞の通り、祖父の繁重さんは権兵衛峠を通って木曽に米を運んでいた。当時は伊那節という名ではなく『おんたけやま』『おんたけ節』などと呼ばれていたらしい。歌にほれ込んだ繁重さんは、伊那の地に歌と踊りを広めて根付かせようと保存会を設立し、会長として普及に尽力した。
「子どものころ、祖父の家には当時珍しい8畳ぐらいの板敷きの間があった。伊那節を踊るための専用の部屋としてわざわざ造ったんですよ。近所の小学生たちを集めて教えていた。祖父の伊那節への情熱はすごかったですね」
2代目会長となった父の千明さんもさまざまな活動に取り組んだ。各地の祭りや民謡大会に積極的に出演したり、踊り手、歌い手の育成に力を尽くした。
「NHKの全国民謡コンテストがあってね、人気投票のようなものだったらしいが、上位に入選させようと、何百枚もはがきを書いていましたよ」
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現代にはさまざまな音楽があふれているが、かつて民衆の暮らしとともにあった伝統的な民謡はその陰に隠れて忘れ去られようとしている。伊那節も例外ではない。
「会員の高齢化と後継者不足が課題。会員は約15人いるから踊るための人数としては十分なんだが、今の会員がいるうちに若い人に入ってもらわないと、教えられなくなってしまうからね。祖父の代から受け継いできた保存会だから、私の代でなくすというわけにはいかない。いろんなところに声を掛けながら頑張って会を発展させ、伊那節を後世に伝えていきたいですね」
(白鳥文男) -
南箕輪村
花和里屋(かわりや)
代表・講師 吉村法子さん「自然のもので癒やされたら、なんてすてきだろうと思う。自然の中にある心地よい香りをいっぱい楽しみましょう-という気持ちで教室をしています」
フラワーデザイナー、アロマセラピスト、ティーアドバイザーの資格を持ち、昨年春、サロン・ド・フルールアカデミー認定教室「花和里屋」を開いた。教室名は「花」と「和み」にこだわり、里山のお茶屋さんでほっとしてほしいという思いを込めた。伊那市生涯学習センター、菓匠Shimizu、諏訪市のエコラボ・クラブの3会場で教えるほか、出張レッスンもしている。
「アロマでもハーブでも、自然の香りは人の心をすごく癒やす。レッスンの中でハーブティーを出していますが、皆さん一口飲んでほっとした表情になり、笑顔になって帰っていく。いろんな方と出会えて、仕事とはいえ貴重な時間を過ごさせてもらっています」
大阪出身で京都に実家がある。夫の転勤で、今は南箕輪村に暮らす。
母親の勧めで華道をしていた時期がある。10年前、母の死をきっかけに、「花をやっていると心が休まる。花に触ることを母が残してくれた」と感じ、自分の中に何かをやったというものを残したい-と、サロン・ド・フルールアカデミーに通い始めた。
癒しとゆとりをテーマにしたサロンと教室で、フラワーアレンジメント、紅茶、アロマセラピー、ハーブと次々と資格を取り、奈良のサロンで2年間、先生のアシスタントを務めた。結婚後は、イベントスタッフとして関わっていたが、先生の声かけで一念発起、教室を開いた。
アロマセラピー、フラワーリラクゼーション、オリジナルの「おうちに彩りレッスン」など趣味や資格の講座を開き、熱心に指導。「皆さんの暮らしに笑顔を増やしてほしいという思いがあったので、夢が少しずつ形になってきていると実感している」という。
自然に触れていることで、自然環境にも関心を持つようになった。長野に暮らし始め空気と水のきれいさを実感。「きれいにして自然に返したい」と衣料洗剤を石けんベースにすることから始め、台所洗剤にも気を使い、エコバッグ使用、化粧品も手作りするなど、できる範囲で楽しみながら取り組んでいる。
「普通の主婦である私がこうしてやっているのを見て、皆さんに私もできるかなと思っていただけるのでは。まだまだ小さい教室ですけど、皆さん喜んで来てくださるので、ずっと続けたいなと思う。私の生徒の中で先生になる人が出て、輪を広げてもらえたらうれしい」(村上裕子)